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つながりの強いひと
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乃木希典
結婚
日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年〔大正5年〕)。家紋は「市松四つ目結い」。幼名... |
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真野響子
神奈川県鎌倉市出身の女優及び金沢大学講師。身長168cm。血液型はA型。夫は俳優柴俊夫、娘は女優柴本幸。妹は女優眞野あずさ(妹の苗字の読みは「まや」では... |
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正岡律
正岡律(まさおかりつ、明治3年(1870年)-昭和16年(1941年)5月24日)は財団法人子規庵保存会初代理事長である。愛媛県出身。俳人・正岡子規の妹。が養子と... |
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伊地知幸介
鹿児島県出身の陸軍軍人。爵位は男爵。陸軍での最終階級は中将。 |
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正岡八重
実家である大原家の庇護を受けるが、明治8年士族の家禄奉還により一時金1,200円を与えられ、裁縫を教え家計を補いながら子規と律を育てる。子規に呼び寄せら... |
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正元
三国時代、魏の高貴郷公曹髦の治世に行われた最初の元号。254年-256年。正元3年は6月に改元されて甘露元年となった。 |
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乃木保典
明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大将・乃木希典、静子夫妻の次男。華族。戦死時の階級は陸軍歩兵少尉(死後、1階級特進で陸軍歩兵中尉)。成城学校(現・成城中... |
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野際陽子
日本のアナウンサー・女優・司会者・ナレーター・声優・タレント。身長163cm、体重47kg、血液型A型。特技は英語・フランス語。ラヴァンス(旧社名丹波プロダ... |
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福原有信
1872年に資生堂の前身である調剤薬局を銀座に開き、1897年には化粧品を発売した、資生堂の創業者である。 |
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乃木勝典
息子
明治時代の陸軍軍人で、乃木希典・静子夫妻の長男。戦死時の階級は陸軍歩兵少尉。戦死による一階級特進により、最終階級は陸軍歩兵中尉。華族。陸士13期で建... |
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河内桃子
日本の女優。日本女子大学附属高等学校卒業。東京府東京市(現:東京都台東区谷中)出身。血液型はO型。俳優座所属。女優としては久我美子と並ぶ名家出身で、... |
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児玉源太郎
日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功一級子爵(なお、兒玉源太郞の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。日露戦争において満州軍... |
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野津鎮雄
大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中将。薩摩国(現・鹿児島県)生まれ。通称は七左衛門。諱は鎮雄。野津道貫は弟。大山巖の相談を受け、「君が代」の選定に関わっ... |
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秋山真之
大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は従四位・勲二等・旭日重光章。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。母は貞。実兄に「日本騎兵の父」と云わ... |
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伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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正岡子規
日本の俳人、歌人、国語学研究家である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。俳句、短歌、新体詩、小説、... |
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広瀬武夫
明治の大日本帝国海軍軍人。日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は「軍神」として神格化された。兄の勝比古も海軍軍人である。 |
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村野山人
薩摩藩出身で、豊州の門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪等の各鉄道の取締役を歴任した人物である。 乃木希典の1周忌に会社の職を辞し、私財を投じて... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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秋山好古
日本の陸軍軍人。階級及び位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。幼名は信三郎。陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味... |
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プロフィール
- 乃木静子とは
- 来歴
- 性格
- 辞世の句
- 乃木家
- 湯地家
- 関連作品
- 関連サイト
乃木静子(のぎしずこ、安政6年11月6日(1859年11月29日)-1912年(大正元年)9月13日)は、幕末・明治期の女性で、陸軍大将・ 乃木希典の妻。
来歴
| 安政6年(1859年)11月6日、鹿児島藩医・湯地定之と貞子夫妻の4女(7人兄弟姉妹の末っ子)として出生。 |
| 幼名はお七、またはお志知。 |
| 明治5年(1872年)12月2日、数え14歳の時に海外留学から帰国した長兄・定基に呼び寄せられる形で家族揃って東京赤坂溜池2番地の湯地定基邸に転居、東京府麹町区にある麹町女學校に入学する(麹町女學校は明治初期に創立され、明治中期に廃学になったため、現存しない。 |
| また、麹町学園が麹町女學校の流れをくむと噂されるも、確たる証拠はいまのところ発見されていないが、それを示唆する文献は多数存在する。 |
| 陸軍軍人・伊地知幸介や野津鎮雄らの勧めにより、躊躇しながらも数え20歳で乃木希典と結婚。 |
| 「静子の方が希典に対して興味・想いを持っていた」とされる文献もあるが、これは間違いである。 |
| 事実は逆で、希典の方が「鹿児島の女子しか嫁に貰わぬ」と述べている。 |
| 長男・勝典を始め、4人の子宝に恵まれるが、勝典と次男・保典を残し、下の二人は生後、間もなく夭折する。 |
| 新婚当時は生活も厳しく、貧しい生活をしている上に姑・乃木壽子(ひさこ、久子表記での文献有り)との確執もあり、苦労・苦悩が続き、1年半ほど勝典・保典を連れて別居している。 |
| 日露戦争が開戦し、出征する希典(出征時は陸軍中将)・勝典・保典(二人とも出征時は既に陸軍少尉)に銀座の高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入し、贈る。 |
| 当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。 |
| 当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2か月分に相当する。 |
| 静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、遺体から異臭が放たれれば夫と愛息子が不憫この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。 |
| 1904年(明治37年)5月27日、勝典が金州南山(通称:金山または南山)で銃弾に打たれて腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、軍医による手術・治療を受けるも出血多量で戦死した(死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進)。 |
| この後、勝典の戦死の知らせを聞いた静子は深い哀しみに暮れ、三日三晩泣き続け、一説には血の涙を流したともいわれる(恐らくは血を流しているかのように見えるほど赤く泣き腫らした顔を指しているものと想われるが、実際に血の混じった涙を流したと記す文献もあり、真偽は不明)。 |
| 1904年(明治37年)11月30日、苦戦を強いられていた帝国陸軍は第3軍司令官・希典と児玉源太郎大将の戦略で203高地を進軍していたが、この時に保典が砲弾に撃たれたショックで岸壁から滑落、岩場に激突し、頭が砕けて戦死した(即死。 |
| 保典も勝典と同じく、1階級特進で陸軍中尉]昇進。 |
| 不思議なことに、保典が戦死したという知らせを聞いた時、静子は何故か勝典が戦死した時のようには泣き崩れず、落ち着いた様子で戦死の事実を受け入れたという。 |
| 一説には保典が戦死する事を予知していたのではないかとも言われる。 |
| 全ての子供を先に亡くした静子は、そのショックから生きた感じを見受けられないような外見になっていたといわれる。 |
| 晩年は盆栽などをわずかな楽しみとしたといわれる。 |
| 1912年(明治45年)7月、明治天皇が糖尿病により崩御、その後の1912年(大正元年)9月13日、明治天皇を追って殉死した希典と共に乃木邸(現在の東京・港区赤坂にある乃木神社)にて胸を突き死亡する。 |
| 享年54(満52歳)。 |
性格
| 末っ子として誕まれたこともあってか、両親・兄姉らに蝶よ花よと大切に育てられた為、性格は内向的で、体もさほど丈夫ではなかった。 |
| 当時はまだ写真撮影が高価な時代であったため、若いころの写真が残っておらず(あっても本人か否かを特定できない為)、本人であると確認できる写真は晩年のころのものしか無いが、若い頃は顔立ちの美しい女性だったと言われる。 |
辞世の句
| 「''出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき''」。 |
乃木家
| 乃木希次(1805-1877)-義父(希典の実父)。 |
| 乃木希典(1849-1912)-夫。 |
| 乃木勝典(1879-1904)-長男。 |
| 乃木保典(1881-1904)-次男。 |
| 乃木恒子(1885-1886)-長女。 |
| 乃木直典(1889-1889)-三男。 |
湯地家
| 父-湯地定之(さだゆき):鹿児島藩侍医。 |
| 母-湯地貞子(さだこ):鹿児島藩士である池田家の娘で、結婚前の幼名は天伊(てい)。 |
| 次女・三女の結婚後の名前に「てい」の読みがあるのは実母の幼名から採られている。 |
| 長兄-湯地定基(さだもと):貴族院勅撰議員、根室縣令(1843-1928)。 |
| 次兄-湯地定康(さだやす):海軍大尉。 |
| 末兄-湯地定監(さだのり):海軍機関中将、貴族院勅撰議員。 |
| 名は「ていかん」と読まれることが圧倒的に多いが、これは誤読である。 |
| 通称もしくは渾名がそのまま名前の読みとして誤って後世に伝わったと考えられる。 |
| 長姉-名前不明:夭折。 |
| 永らくの間は次女と同一人だとされていたため、名前も「馬場貞子」と思われていた。 |
| 次姉-幼名不明:結婚後に馬場貞子(ていこ)となる(母親の名前と同じ字画なので区別するためと想われる)。 |
| 姉の夭折により実質的な長女として育てられたため、永らくの間は本来の長女の名前が馬場貞子であるとされ、次女である当人が夭折したとされていた。 |
| 自決した希典・静子夫妻の遺体を発見したのは彼女である。 |
| 末姉-湯地お六:結婚後に柴テイとなる(てい・てい子・テイ子などと表記する文献もある)。 |
| 静子と最も歳が近いため、特に仲が良かったといわれる。 |
| 大甥-湯地朝雄:文芸評論家。 |
| 湯地定監の孫。 |
関連作品
| 宿利重一 『乃木静子』 (春秋社、1941年(昭和16年)など)。 |
| 福岡徹 『華燭〜乃木静子の生涯〜』 (文藝春秋、1971年〔昭和46年〕)。 |
| 渡辺淳一 『静寂の声 乃木希典夫妻の生涯』 (全2巻、文藝春秋、のち文春文庫)。 |
| 1990年にテレビ朝日でドラマ化、主演緒形拳・竹下景子。 |
| 司馬遼太郎 『殉死』 現在は文春文庫ほか。 |
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1859年
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鹿児島藩医・湯地定之と貞子夫妻の4女(7人兄... |
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1872年
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数え14歳の時に海外留学から帰国した長兄・定... |
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