| 安政3年(1856年)、兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学。 |
| 熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた。 |
| 久坂はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、この遊学によって、松陰に対する敬慕がより一層深まった。 |
| 久坂は萩に帰るとすぐ松陰に手紙を書き、吉田松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった。 |
| しかし、この手紙のやりとりはかなりの激論となった。 |
| まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし」という、強硬な外国排撃論であり、その論に対して敬慕する松陰の賛を得ようというものであった。 |
| しかし、この手紙に対して松陰は、「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない。 |
| 私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。 |
| アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。 |
| 往昔の死例をとって、こんにちの活変を制しようなど笑止の沙汰だ。 |
| 思慮粗浅とはこのことをいうのだ。 |
| つまらぬ名言を費すよりも、至誠を積み蓄えるがよい」と、松陰は痛烈な言葉を書き連ね、完膚無きまでに玄瑞をやっつけて、手紙を返した。 |
| だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは、大いに鍛えてやろうという下心があった。 |
| 玄瑞を紹介した土屋への手紙に、松陰は、「久坂生、士気凡ならず。 |
| 何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、是にて一激して大挙攻寇の勢あらば、僕が本望これに過ぎず候。 |
| もし面従腹背の人ならば、僕が弁駁は人を知らずして言を失うというべし。 |
| 」と「一激して大挙攻寇」してくることを期待していたのである。 |
| 松陰の期待通り、玄瑞は憤激して大挙反撃した。 |
| 玄瑞は松陰に「誠(玄瑞)の大計を論ずるは、憤激の余り出づるのであって、強く責めるにはあたるまい。 |
| 今、義卿(松陰)の罵言、妄言、不遜はなんと甚だしいことぞ。 |
| 誠(玄瑞)は義卿(松陰)にしてこの言あるを怪しむ。 |
| もし果たしてこの如き言をなす男だとすれば、先の日に宮部生が賞賛したのも、誠(玄瑞)が義卿(松陰)を豪傑だと思ったのも、各々誤ったようである。 |
| 紙に対して、憤激の余り覚えず撃案した。 |
| ここで松陰は約一カ月の間をおいて、筆を執った。 |
| 「あなたは僕があなたに望みを託し、あなたの成長を願っているのを察しないで、相変わらず空論を続けている。 |
| そのことを僕は大いに惜しんでいる。 |
| なるほど、あなたのいうところは滔々としているが、一としてあなたの実践からでたものではないし、すべて空言である。 |
| 一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめて、歴史の方向を見定めて、真に、日本を未来にむかって開発できるように、徹底的に考えぬいてほしい」 しかし、今度も玄瑞は自分の理論が誤っていると認めなかった。 |
| 説得できないとさとった松陰は、今度はうってかわって玄瑞の理論を認めたうえで、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのには名分がある。 |
| 今から斬るようにつとめてほしい。 |
| 僕はあなたの才略を傍観させていただこう。 |
| 僕の才略はあなたにとうてい及ばない。 |
| 僕もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。 |
| そして、考えたことが手紙に書いたことである。 |
| あなたは言葉通り、僕と同じにならないように断固としてやってほしい。 |
| もし、そうでないと、僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。 |
| あなたはなお、僕に向かって反問できるか。 |
| さすがに玄瑞も、松陰の実践と思索に裏付けられた強い言葉には、たじたじとならざるを得なかった。 |
| こうして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。 |
| 松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉・吉田稔麿・入江九一と共に「松門の四天王」といわれた。 |
| 松陰は久坂を長州第一の俊才であるとし、高杉と争わせて才能を開花させるようつとめた。 |
| そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。 |