| 3歳の時に家族とともに東京に移り、江東区深川のベニヤ工場で育つ。 |
| 麹町中学校、駒場東邦高等学校卒業、1964年、早稲田大学第二政治経済学部卒業。 |
| 大学では証券学会、放送研究会音楽部などで活動した。 |
| 大学2年生の時、行きつけのレコード店関係者からの紹介で、ニッポン放送プロデューサー兼ディスクジョッキー高崎一郎のアシスタントとしてアルバイトをはじめる。 |
| 卒業後、正式に職員として採用される。 |
| 同期にはカメ&アンコーのアンコーこと斉藤安弘がいる。 |
| ニッポン放送入社後、アシスタント、あるいはチーフとして「ベスト・ヒット・パレード」、「ヤング・ヤング・ヤング」、「フォーク・ビレッジ」、「青島幸男のまだ宵の口」等の若者向き番組を担当する。 |
| 同時期、ポピュラー音楽雑誌への執筆やレコードの解説なども多々行なっている。 |
| その際の名義は本名の他、父母の名を合成した「友紀元治」という名義や、「江張嫩」というペンネームがある。 |
| 1966年10月から1年間、現地のラジオや音楽を勉強するため渡米。 |
| 前半はサンフランシスコ州立大学に聴講生として通い、後半はロサンゼルスを中心としたアメリカのラジオ局を訪問する。 |
| 当時のサンフランシスコ・ベイエリアは新しいロックのメッカでもあり、亀渕はジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、クイックシルバー・メッセンジャーサービス、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、カントリー・ジョー&フィッシュなど、ベイエリアで人気上昇中のグループや、ドアーズ、オーティス・レディング、ザ・フー、クリームなど、ツアーでサンフランシスコにやって来る人気アーティストのライブ、またモントレー・ポップ・フェスティバル等のイベントを観賞した。 |
| 1967年10月に帰国し、ニッポン放送制作部に復職。 |
| 制作担当として「高崎一郎のオールナイト・ニッポン」、「モコ・ビーバー・オリーブ」の三人娘で人気を博した「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」、「陳平花の予備校」など若者向き番組を制作する。 |
| 初めてマイクの前で喋ったのは1968年春、日曜日の深夜(月曜日早朝)に放送されていた「オールナイトニッポン電話リクエスト」。 |
| この番組は「オールナイト・ニッポン」の番外編ともいえるもので、東京単(ネットなし)で放送時間も午後11時半から放送休止時間の午前2時までであった。 |
| 本格的に「オールナイトニッポン」に登場したのは1969年5月。 |
| はじめは木曜日(金曜日早朝)の担当であった。 |
| 初めてかけたレコードはグラスルーツの「今日を生きよう」。 |
| その年の10月、土曜日担当であった高崎一郎がフジテレビ「オールナイトフジ」に出演するため、亀渕が土曜枠に異動となる。 |
| 当時の「オールナイトニッポン」は、音楽が中心の糸居五郎、お喋り中心の今仁哲夫、若者にファンが多い斎藤安弘などの人気者が大活躍していた。 |
| 亀渕は、糸居と今仁の中間路線、土曜日ということもあり、音楽とオチャラケ話が中心の明るく楽しい番組を心がけた。 |
| また、同僚の斎藤安弘と一緒に「カメ&アンコー」名義で「水虫の歌」(CBSソニー)、「ひとりぼっちの唄」(ポニーキャニオン)、あるいは一人4重唱の「カメカメ合唱団」名義で「こころのシャンソン」「少年探偵団」(RCAビクター)などを発表。 |
| 歌を歌うことによって番組の人気を高めることにも貢献。 |
| エレックレコードからは泉谷しげるらと一緒にアルバム「カメカメ合唱団/人生はピエロ」をリリースしている。 |
| 「オールナイトニッポン」では、ナイジェリアの内戦で餓死寸前となったビアフラ地方に住む多くの子供たちを救うため「ビアフラにお米を送ろう」という真面目なキャンペーンを行った反面、1週間に約2万通も届くリクエスト葉書を放送中のスタジオにバラまき、一番遠くに飛んだハガキの送り主に1万円をプレゼントする「ハガキぶん投げ作戦」などのバカバカしい企画も行った。 |
| 1972年7月、編成方針の変更で月曜日から土曜日の週6回、午前1時から3時まで「オールナイトニッポン・ビバカメショー」を担当する(約1年間)。 |
| ここでは、従来から週1回担当する「オールナイト・ニッポン」とは異なる路線を敷き、洋楽ファン、特にロック・ファン、フォーク・ファンのために音楽中心の番組作りを行う。 |
| 沢田研二から来日したニルソンまで、ゲスト陣も賑やかだった。 |
| 1973年夏、再び編成方針の変更で「オールナイトニッポン」制作チーフに起用され、今度は喋る側から作る側に回る。 |
| 局アナが担当することがウリであった同番組を模様替えし、タレントやフォーク歌手を起用、番組の更なる前進を図った。 |
| 番組スタッフにも恵まれ、彼らのリサーチにより新しく才能あるパーソナリティーが次々と発掘され、この時代に現在の「オールナイト・ニッポン」の土台が築かれた。 |
| 1978年1月、同社編成部長に就任。 |
| その後、制作部長、編成局長などを担当。 |
| 1983年8月、俳優伊武雅刀が出演するラジオ番組が期日までに終了出来なかったペナルティーとして、伊武の所属事務所社長の依頼で、伊武のナレーションを生かしたユニークな歌唱による「子供達を責めないで」(訳詞:秋元康、作曲:BarnumReeve)と「パパと踊ろう」(作曲AndréClaveau)をプロデュースする。 |
| 1985年には、民放ラジオ64社(当時)が企画し、6月15日に国立競技場で行なわれた音楽イベント「国際青年年記念ALLTOGETHERNOW」のチーフ・プロデューサを担当する(同イベントには吉田拓郎、オフコース、アルフィー、さだまさし、南こうせつ、イルカ、はっぴいえんど、高中正義、ラッツ&スター、武田鉄矢、アン・ルイス、山下久美子、白井貴子、財津和夫、つのだ☆ひろ、チェッカーズ、加藤和彦、坂本龍一、松任谷由実、高中正義、後藤次利、高橋幸宏、佐野元春、桑田佳祐、薬師丸ひろ子など多くのビッグ・アーティストたちが集結した)。 |
| 同年6月27日、取締役編成局長に就任。 |
| 1999年にニッポン放送代表取締役社長就任した。 |
| 2001年10月、社団法人デジタルラジオ推進協会理事長に就任(2008年6月退任)。 |
| 2005年1月、ニッポン放送はフジサンケイグループの資本関係を正常化するため、フジテレビからのTOB提案を受諾する。 |
| その直後ライブドアによる市場での株式大量買い付けによる買収騒動が勃発。 |
| 亀渕は一貫して「ニッポン放送はフジサンケイグループの一員として残る」との姿勢を崩さず、この件に対処する。 |
| 騒動が収まった同年6月に社長を退き、同社相談役に就任する。 |
| 同月、前年亡くなった母が保管していた荷物から出てきた「オールナイトニッポン」時代に聴取者から貰った便りの束を手がかりにその差出人を探し出し「亀渕昭信のオールナイトニッポン35年目のリクエスト青春のかけら届けます」と題するラジオ番組を制作、社団法人日本民間放送連盟番組コンクール、ラジオエンタテイメント部門優秀賞を受賞。 |
| 同番組は翌年、「亀渕昭信のオールナイトニッポン35年目のリクエストあの日の手紙届けます」というタイトルで白泉社から出版された。 |
| 2008年6月、ニッポン放送を退社。 |
| この年の8月から、スタジオジブリ発行のフリーマガジン「熱風」に、念願であった自分とロックンロール音楽の関わりあいをまとめた「ドーナッツ盤に恋をして、私説ロクンロール黄金史」の連載を始める。 |
| 2009年4月7日より、NHKラジオ第1、NHKワールド・ラジオ日本、地上デジタルラジオ実用化試験放送(東京・大阪のみ)、NHKラジオ1で放送する『亀渕昭信のいくつになってもロケンロール!』のDJを務める。 |
| 民間放送局の元経営者がNHKの番組にレギュラー出演するのは史上初。 |
| 2009年5月6日には、同じNHKラジオ第1、NHKワールド・ラジオ日本、地上デジタルラジオ実用化試験放送(東京・大阪のみ)放送の「ラジオデー広げようラジオの魅力」にも出演。 |
| 8月24日から28日までの5日間、ビートルズのリマスター盤発売を記念して制作されたニッポン放送の特別番組『亀渕昭信のオールナイトニッポンGOLDザ・ビートルズオールリクエスト5days』のDJを担当。 |
| 2010年4月から1年間、ニッポン放送をキー局にしたラジオ番組「ラジオアーカイブ発掘!ラジオ天国」のパーソナリティーを担当。 |
| 11月には料理研究家土井善晴との共著 |
| 2011年3月21日、NHK-FM「今日は一日大滝詠一三昧」に友情出演。 |
| 同年3月、2年間続いたNHKラジオ1「亀渕昭信のいくつになってもロケンロール」が終了。 |
| 3月26日から新番組「亀渕昭信のにっぽん全国ラジオめぐり」がスタート。 |
| 番組内容は、NHKラジオ1が全国各地で人気の民間放送ラジオ番組を紹介するというユニークなもので、亀渕は取材のため全国を行脚する。 |