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つながりの強いひと
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聖武天皇
父
聖武天皇(しょうむてんのう、大宝元年(701年)-天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日)-天平勝宝元年7月2日(749年8月19... |
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光仁天皇
夫
第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日)-天応元年4月3日(781年4月30日))。 |
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他戸親王
奈良時代末期の皇族・皇太子。父は光仁天皇(当時は白壁王)、母は井上内親王。聖武天皇の外孫にあたる。<SMALL>『水鏡』の年齢記事によれば「宝亀三(772年... |
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桓武天皇
日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)-延暦25年3月17日(806年4月9日))。 |
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不破内親王
奈良時代から平安時代にかけて生きた皇族。聖武天皇の娘。 |
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県犬養広刀自
母
県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ、生年不詳-762年11月8日(天平宝字6年10月14日))は聖武天皇の夫人。正三位。 |
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早良親王
奈良時代末期の皇族。光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(... |
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天武天皇
7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。 |
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酒人内親王
光仁天皇の皇女。母は皇后井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。 |
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安積親王
奈良時代の皇族。聖武天皇の第二皇子。母は県犬養広刀自。 |
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藤原吉子
奈良時代後期から平安時代初期にかけての桓武天皇の夫人。父は藤原南家藤原是公(これきみ)。伊予親王の母。 |
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天智天皇
同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号で... |
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藤原百川
奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。 |
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伊予親王
平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子(異説あり)。官位は三品・中務卿、贈一品。 |
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道鏡
奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓... |
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神功皇后
仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひ... |
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舎人親王
飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。天武天皇の皇子。淳仁天皇の父で、諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうて... |
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山部王
日本の飛鳥時代の皇族である。系譜は明らかでないが、舒明天皇の皇子である蚊屋皇子の子とし、子に三島垂水(垂水王)がいたとする系図がある。672年の壬申の... |
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高野新笠
新笠が光仁天皇の側妾となった際に下賜されたもの。 |
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橘逸勢
平安時代の書家・官人。橘奈良麻呂の子で右中弁を務めた橘入居の末子。嵯峨天皇皇后・橘嘉智子、右大臣橘氏公はいとこにあたる。官位は従五位下・但馬権守、... |
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プロフィール
- 井上内親王とは
- 経歴
- 呪詛
- 異伝
- 鎮魂
- 系譜
- 外部リンク
- 関連サイト
井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年)-宝亀6年4月27日(775年5月30日))は第45代 聖武天皇の第1皇女。母は夫人 県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代 光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后。
経歴
| 養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。 |
| 天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下する。 |
| 帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。 |
| 同19年(747年)、無品から二品に叙される。 |
| 天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。 |
| その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。 |
| 他戸親王出産に関してはあまりにも高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を天平勝宝3年(751年)、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。 |
| しかしながら酒人内親王を37歳の時の子であることを考えた場合、45歳という当時でも極めて稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。 |
| 光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、また翌2年(771年)1月23日には他戸親王が立太子される。 |
| 宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。 |
| 翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。 |
| 10月19日、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。 |
| なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。 |
異伝
| 後世の史書・史談などには『続日本紀』異なる内容を伝える記事や、信憑性に欠ける扇情的な記述も散見される。 |
| 『水鏡』-光仁天皇が皇后と賭け事で「自分が勝ったら后に絶世の美女を紹介してもらおう。 |
| 自分が負けたら后に若く逞しい男性を与えよう。 |
| 」と言い、結果皇后の勝ちであったために山部親王を差し出したところ、皇后が若い親王に夢中になってしまった。 |
| 『一代要記』-他戸親王は井上内親王の実の子ではなく、内親王の生母と同じ県犬養氏出身の女嬬県犬養宿禰勇耳と白壁王との間に産まれた皇子で、井上内親王が引き取り我が子として育てた。 |
| 『一代要記』の所伝を採れば、他戸親王は『続日本紀』や『新撰姓氏録』左京皇別上に見える光仁天皇の皇子で、臣籍降下した広根朝臣諸勝と同母の兄弟ということになる。 |
鎮魂
| 宝亀7年(776年)から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った。 |
| 同8年(777年)、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓と追称。 |
| さらに延暦19年(800年)、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称する。 |
| 陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵に比定されている。 |
| のちに慰霊のために霊安寺(廃寺)が建立され、更には霊安寺の隣に内親王を祀る御霊神社も創祀された。 |
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井上内親王さんについてのひとこと紹介
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