| 名前「成美」の由来は、論語顔淵篇の一節「君子成人之美(くんしはひとのびをなす)」。 |
| 「いのうえせいび」とも呼ばれていた形跡がある。 |
| 1981年に英国で刊行された日英海軍の関係をテーマとした研究書に、「イノウエシゲヨシ海軍少将、海軍省軍務局長。 |
| イノウエセイビという呼び方で、より知られている…」と記載されている |
| 井上は海大甲種学生22期を卒業しているが、このクラスの同期会は「成美会(せいびかい)」という名称だった井上成美伝記刊行会 『井上成美』。 |
| 阿川弘之は1986年(昭和61年)に刊行した井上の伝記「井上成美」のタイトルに『いのうえせいび』とルビを振っている。 |
| 1966年頃に、東大経済学部教授の安藤良雄の「(井上さんが)生涯を通じて堅持して来られたのはリベラリズムということになりましょうか」との問いに、「いえ、その前にラディカルという字が入ります」と答えた阿川弘之 『井上成美』 新潮社(新潮文庫版)543頁。 |
| 旧制中学時代の成績表が残っているが、そこには数学と音楽、そして細工(工作)の成績がずば抜けており、意外にも英語は「兵学校三号生徒の時は教官に名指しで英語下手を指摘され」、「おかげで成績は入校時の9番から16番に落ちた」くらいの成績だったようである。 |
| 英語はその後、クラス一の英語達者な同期に英語学習法を聞いて実行するなどし、逆に得意科目にしている。 |
| 井上の音楽好きは母親譲りでギター・ピアノ・琴が得意であり、晩年まで良く弾いていた。 |
| 戦後に隠遁生活を送った時も、病弱な娘のために介護用ベッドを自分で作り阿川弘之 『井上成美』 新潮社(新潮文庫版)121頁、またパン焼き器やトースターまで自分で作っている。 |
| 兵学校校長時代に独自で編み出した、生徒や教官の数学的思考を養うための「数学パズル」も残っており、海軍次官になった後も暇さえあればそれを楽しんでいた。 |
| 終戦後に「サン・パズル」という名前でアメリカに販売しようとしたこともある。 |
| 数学と語学の教育については自分の経験に基づいた理論を持ち、語学に関しては「語学は若いうちにやる方が有利」「流暢さより正確にものを伝えることに重点を置け。 |
| ずっと勉強していればいつか流暢にはなる」「勉強する語学でしゃべる夢を見ればしめたもの」「現地で語学をやるからには会話をマスターすべし。 |
| 読み書きは日本にいても出来る」「音楽の素養がある人は語学の上達も早い傾向あり」等、海外駐在時代に書いた「駐在任務遂行経過並ニ所感」という提出物にまとめられている。 |
| 駐在前に駐在経験者の堀悌吉を訪問しているが、「スパイまがいの活動はするな。 |
| もっと次元の高いことをやれ。 |
| その国の歴史を知り、世情に通じることだ。 |
| その国の人々が何をどう考えているか、それを勉強してこい」とアドバイスされ、実際に実行している。 |
| 剛直で理論家肌の性格と切れすぎる頭脳(渾名は「三角定規」「剃刀」)が災いし、相手が面目を失うまで手厳しく批判するなど矯激な行動が見られ、部内に敵が多かった。 |
| また、几帳面、独立不羈、曲がったことが大嫌いな人柄だったと伝えられている。 |
| しかし、人物が冷たいということではなく、。 |
| 「比叡」艦長時代、井上が翌朝まで帰艦しない予定で上陸した。 |
| 従兵長の下士官が、その隙に艦長室のベッドで熟睡してしまったのを、予定を切り上げて帰艦した井上が見つけた。 |
| 井上はこれを誰にも言わず、従兵長は井上の恩情を長く徳とした阿川弘之 『井上成美』 新潮社(新潮文庫版)144頁。 |
| 支那方面艦隊参謀長時代は練習場所に困っていた軍楽隊に練習場所を確保した。 |
| 兵学校校長時代には校内の雑用係だった当時15〜6歳の「ボーイ」に、「勉学に励むには一番良い年齢なのに雑用ばかりではもったいない」と希望者のみ無料で基礎的な数学と英語を隔日2時間ほど教育するよう指導し講義は予備学生出身の武官教官がボランティアで行っていた。 |
| 、成績優秀者にはポケットマネーでコンサイスの英英辞典をプレゼントした兵学校の文官教官であった者が、戦後に広島大学を訪れた時に、この教育を受けた「ボーイ」の一人が、理科関係の助手を務めているのに出会った例がある。 |
| 広島大学をいつ訪問したのか、その「元ボーイ」がその後どのような人生を歩んだか、などは不明。 |
| 井上成美伝記刊行会『井上成美』372頁。 |
| 兵学校生徒の接待で生活費がかさみ破産寸前になり娘を栄養失調で入院させてしまった教官に対しては、校長命令で粉ミルクやパンなどを特別配給させた。 |
| 等、「三角定規ではあるものの杓子定規ではない」温かい面もある。 |
| 井上が海軍次官の時に軍務局第一課長だった横山一郎は「井上さんは部下の意見を実によく聞いてくれた。 |
| 部下の意見を聞かないワンマンとは違う。 |
| 井上さんのことをとやかく言う人がいるが私は好きだね」と評している。 |
| 第二次ソロモン海戦後の9月、井上は第三艦隊(空母機動部隊)の准士官以上の搭乗員をトラックの料亭「新小松」に招待した。 |
| 井上は麻の白絣、薄鼠の袴、白足袋という夏物の和服で出席した。 |
| 高橋定大尉(「瑞鶴」艦爆隊長)は、井上が支那方面艦隊参謀長時代に海軍航空隊を支那事変の奥地爆撃に積極的に参加させ、多数の搭乗員が犠牲になったことを疑問視していた。 |
| 酔いが回った高橋定は、井上の前に進み出て、ビールを井上の袴にぶちまけた。 |
| 高橋定の観察では、搭乗員の狼藉に対し、井上は姿勢も顔色も変えず、僅かに唇を歪めただけで無言であった阿川弘之 『井上成美』 新潮社(新潮文庫版)321頁。 |
| 千早は、温厚で周囲の笑いをとる村田がこのような行動をとったことに、井上の態度からして理解できると述べている#海軍功罪p.245。 |
| 44歳の海軍大佐の時に妻の喜久代に先立たれたにも関わらず、女性に対して極めて禁欲的だった。 |
| 昭和40年代、晩年の井上を経済的にバックアップしていた兵学校長時代の教え子の深田秀明(兵73期)の質問に対し、井上は「私は先妻の喜久代を結核で亡くした。 |
| だから、コンサンプションと呼ばれる胸部疾患に私は極めて神経質で、それを警戒してずっと禁欲生活を続けてきた」と語った阿川弘之 『井上成美』 新潮社(新潮文庫版)564頁。 |
| 妻をなくしてから海軍が消滅するまで、宴席で料亭に行っても、他の高級士官のように芸妓と遊ぶ(一夜を共にする)事はなかった。 |
| 支那方面艦隊勤務時代や海軍大学校教官時代など、部下や学生として四度井上に直接接した山本善雄は、「面白味がない、人間的に冷たいと言う人がいるがそれは違うと思う。 |
| の正月に催された横須賀陸海軍の親睦会で憲兵隊長だった林少佐と飲んでいた時、憲兵隊長の「貴公、貴公」と言う傲慢な態度に「君は少佐ではないか、私は少将だ。 |
| 直後に別部屋でお茶漬けを食べていたところ、芸者からその憲兵隊長と付き添いの荒木貞亮・柴山昌生両少将がケンカをしている報告を聞き、井上が「どっちが勝っているか」と質問し、「憲兵隊長が袋叩きにされています」という事を聞くと、「それならほっとけ」とだけ言った。 |
| ある艦艇の艦長が乗員に上陸禁止令を出し自分は水交社で食事をしていたところに参謀長の井上が現れ、「貴艦には上陸禁止令が出ていたはずだが」と質問した。 |
| 得をするのはドイツだけです」と述べていた通り、三国同盟に徹底的に反対し、ファシズム体制下のドイツやイタリアには厳しい見方をしていた。 |
| 井上はドイツ、イタリア駐在の経歴を持つが、両国の人間性をあまり信用せず、アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』についてもドイツ語原書で読破し「日本人を差別している」からと、軍務局長時代には、英米軽侮、親独の風潮が出てきた軍務局員に注意を促している。 |
| 支那方面艦隊参謀長時代の5月、上海の共同租界で私服の日本人憲兵が中国人の強盗に襲われた際、陸軍はこれを口実に国際法規を無視して一個大隊を租界に進入させようとしたが、井上の「強引に租界に入ろうとする者は、たとえ日本陸軍でも敵とみなして撃滅せよ」という厳命を受けた上海海軍特別陸戦隊や艦隊参謀が陸軍の行進を阻止、押し問答の末陸軍は引き下がらざるを得なかった陸海軍の協定により租界内の警備は海軍陸戦隊が一手に行い、陸軍は入ることが出来なかった。 |
| 12月8日に、カロリン諸島の中心であるトラック島において、第四艦隊旗艦「鹿島」艦上にて、「トラトラトラ」を傍受した際、通信参謀である飯田秀雄中佐が電報を届けた。 |
| 第二次世界大戦が始まってヨーロッパに住んでいた日本人が続々引き返してきた頃、神戸出身の海軍士官が新聞社のインタビューで「ドイツは負けますよ」と発言し、それが記事になった。 |