| 夜叉掃部と呼ばれた。 |
| 関ヶ原の戦いの折に家康が伊達政宗に与えた「百万石のお墨付き」を後になって政宗が幕府に持ち出してきた時に調停にあたり、「確かに神君家康公の御真筆である。 |
| 昔なら百万石でも二百万石でも賜ろうとなされたであろうが、今は太平の御世で差し上げる土地もない。 |
| このような無益な難儀を起こしても仕方がない」と話して、お墨付きを政宗から取り上げ破いて燃やしてしまった。 |
| 政宗は文句を言いながらも「今後ともよしなに」と引き下がるしかなかったという。 |
| 彦根城下で質素倹約を徹底させようとしたが都に近いため派手ないでたちの者も多くうまくいかなかった。 |
| そこで直孝は「衣服を質素に改めない者は、自分に泥を塗ることになる」と触れを出して、派手な者を見つけ次第着物に泥を塗りたくるという罰を与えたため、城下で派手な着物を着る者はいなくなった。 |
| 晩年も質素倹約を旨として粗末な身なりで畳も敷かず竹のスノコで寝て、屋敷内にすきま風が吹き荒ぶような生活をしていたため、流石にあきれた医者が「不養生が過ぎる」ととがめると「戦場では湿った土の上でも寝るものだ。 |
| 体を温めるようでは徳川の先手は務められぬ。 |
| これしきの寒さで死ぬようならもっと頑強な者が当主になったほうが将軍家の御為になる」と言い返したという。 |
| 庭に植木もなく雑草が生い茂っていたという。 |
| 江戸で直孝が鷹狩に出た帰りに小さな貧しい寺(弘徳庵)の前を通りかかると、中に入るよう手招きする猫がいたためその寺に入った。 |
| すると辺りは突然雷雨となった。 |
| 雨宿りをしながら寺の和尚と話をしているうちに直孝は和尚と親しくなり、後に寄進を受け立派に改築され井伊家の菩提寺とされ、直孝の法名に因んで豪徳寺と号した。 |
| それからその寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として招猫堂を立てて祀った。 |
| この話が招き猫、ひこにゃんの由来である。 |
| 徳川家綱が11歳で将軍に就いた時、大名たちの列座の前で当時水戸藩嗣子だった徳川光圀が「もし天下を狙う者があれば、幼少の家綱様が将軍に就かれた今がその機会である。 |
| しかし自分が軍勢を率いて先頭に立ってその者を討ち取るので、そのつもりでかかって参れ」と啖呵を切った。 |
| ところが直孝がすかさず「徳川軍の一番槍の栄誉は家康公から井伊家に与えられています。 |
| いかに御親藩と言えども、水戸様はいつ家康公から一番槍の栄誉を与えられたのですか?」とクレームをつけたために、光圀は大恥をかいた。 |
| 寡黙な性格で余計なことを喋らなかったため、その発言は重きを成した。 |
| さらに「直孝に色々と話を聞きたい」という話も断っていたので、ますますその言葉は貴重になり、直孝から言葉をもらっただけでそれを自慢する者さえいた。 |
| 直孝が着用した薫革威段替胴具足(くすべがわおどしだんがえどうぐそく)が彦根城博物館に収蔵されている。 |
| 簡素で実戦向きに作られ機能美に優れている。 |
| 家康の裁定で家督を異母兄から奪った形になり、さらに大坂の陣では多大な被害を出した軍律違反を許されたうえに逆に家督の相続を許可されたことから、「実は家康の隠し子(落胤)ではないか」という噂が流れた。 |
| 容姿や言動が家康に似ていたという説もある。 |
| なお、直孝の実母、伊具氏については直政正室の侍女、あるいは直政が宿所とした農家の娘など複数の説があり定かでない。 |
| 大坂冬の陣の折、家康が本多忠朝に「京口の川の流れを見て参れ」と命じると、見て帰ってきた忠朝は「水の勢いが甚だ強い様子」と報告した。 |
| 家康は次に直孝に命じ、見て帰ってきた直孝は「水浅く渡りやすく見えます」と報告した。 |
| 家康は「見に行かせりは心ありてのものなるに」と直孝を褒めた。 |
| 物見は常に戦いを進めやすいように報告すべきということを家康は言いたかったのであり、直孝はその真意に応えたのである。 |
| 大坂冬の陣後、敵方の長宗我部盛親に、「徳川方第一の戦功は八尾で大坂方を破った井伊直孝」と言われた。 |
| また、盛親が二条城の門前に晒された際に、足軽から折敷に盛った粗末な飯をあてがわれ、「戦に負けて捕らわれることは恥としないが、かくも卑陋な物を食わせるとは無礼な奴。 |
| 早く首を刎ねよ」と怒った。 |
| これを聞いた直孝は、盛親を座敷に上げて大名料理で供応するという心遣いをした。 |
| 盛親は感激したという。 |