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つながりの強いひと
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清沢洌
ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたこと... |
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相馬愛蔵
長野県出身の社会事業家、東京新宿中村屋の創業者である。 |
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内村鑑三
日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。 |
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相馬黒光
相馬黒光(そうまこっこう、1876年9月12日-1955年3月2日)は夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。旧姓は星、本名は良(りょ... |
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荻原碌山
明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。 |
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石井十次
日本で最初に孤児院を創設した人物。「児童福祉の父」と言われる。アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。彼は岡... |
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山室軍平
山室軍平(やまむろぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日戸籍上は8月20日)-3月13日)は日本の宗教家。説教者。日本人初の救世軍士官(=牧師)で初代の日... |
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荻原守衛
荻原守衛(碌山 ろくざん) プロフィール 荻原守衛(碌山 ろくざん)プロフィール
1879年生まれ-1910年に没する。
小学校を卒業、家業を手伝う。
1894年 に相... |
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葛井義憲
葛井 義憲 1948年、兵庫県に生まれる。1978年、同志社大学大学院神学研究科博士課程修了。専攻、キリスト教史・宗教学。中目黒幼稚園園長、桜美林大学、明治... |
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木下尚江
日本の社会主義運動家、作家。男性。尚江は本名。 |
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安曇野市
長野県中部(中信地方)の市。2005年10月1日に南安曇郡豊科町・穂高町・三郷村・堀金村と東筑摩郡明科町が合併し、誕生した。人口は約10万人で長野県内6位。 |
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斎藤茂
profile 斎藤 茂 北海道札幌市出身。音楽番組のプロデューサーとして、東京のFM放送局勤務後、独立。番組、音楽、コンサートなどの制作を行なっている。 2007... |
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高村光太郎
日本の詩人・彫刻家。東京府下谷区(現在は東京都台東区)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。本職は彫刻家・画家であるが、今日では『道程』、『智... |
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高橋節郎
長野県南安曇郡北穂高村(現:安曇野市)出身の漆芸家である。日本芸術院会員、文化勲章受章者、文化功労者、日展顧問。 |
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橋川文三
日本の政治学研究者、政治思想史研究者、評論家。明治大学政治経済学部教授を務めた。 |
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文覚
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、... |
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松岡弘
岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)。ヤクルト(前身含む)一筋の選手で初優勝・日本一に貢献した大エースであった。 |
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中原悌二郎
中原悌二郎(なかはらていじろう、1888年10月4日-1921年1月7日)は北海道釧路市生まれの彫刻家。大正期日本を代表する彫刻家の一人。17歳の時、画家を志して... |
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プロフィール
- 井口喜源治とは
- 生い立ち
- 相馬愛蔵と禁酒会
- 研成義塾の設立
- 井口と内村鑑三
- 信州教育への影響
井口喜源冶(いぐちきげんじ、明治3年(1870年)–昭和13年(1938年)7月21日)は、長野県 安曇野市出身で、 キリスト教精神に基づく私塾「研成義塾」の創設者である。
生い立ち
| 井口喜源治は、明治3年長野県安曇郡等々力町村(のちの南安曇郡東穂高村、穂高町)に、父喜十、母こんの長男として生まれた。 |
| 3歳の時に母を亡くし父と祖母に育てられた。 |
| 明治17年に穂高の研成学校の支校保等(ほとう)学校を卒業し、長野県中学校松本支校へ進学した。 |
| この中学校時代に、英語教師であった米国人宣教師エルマーよりキリスト教の教えを受け、終生変わらぬ献身者となった。 |
| その後、上京して明治法律学校において法律を学んだが、同時に牛込教会に通い、内村鑑三、巌本善治らの宗教家、宗教教育者に会い、教育の道に進む決心をした。 |
| 明治23年、同校を中退し、上高井高等小学校小布施分校の教師となった。 |
| さらに松本尋常高等学校を経て、明治26年の結婚を機に、郷里の東穂高組合高等小学校に着任した。 |
相馬愛蔵と禁酒会
| 井口はここで、生涯の友となる相馬愛蔵が主唱する東穂高禁酒会に入会し、積極的に社会活動に参加していった。 |
| また、聖書を通してキリスト教への傾倒していった。 |
| しかし、教え子の中からキリスト教を信仰するものが続出したため、井口は、校長、その他の教員たちから排斥されることになってしまった。 |
| 原因は、当時の田舎ではキリスト教はヤソと言われ毛嫌いされていたことと、井口が教壇を使って生徒達に布教活動をしたのではないかと思われたことであった。 |
| 結果的に、彼は公教育の場を追われることになってしまった。 |
研成義塾の設立
| ことの成り行きを心配した相馬愛蔵ら禁酒会のメンバーが、井口が理想の教育を行えるようにと、村の有力者臼井喜代、愛蔵の父相馬安兵衛の援助を得て、私学校「研成義塾」を村に作ってくれることになった。 |
| 研成義塾は、初めは集会所を借りた小規模なものだったが、2年後、愛蔵らの支援により本科教室と裁縫室、応接室のある新校舎が建てられた。 |
| 建物は小さくても、そこには、「学生の多数を望まず、校舎の壮大なるを望まず」、「一人の教師が一人の生徒と信頼をもって相対」するという確固たる教育精神があり、キリスト教に基づいた人格主義教育をめざし、「偉い人」でなく「善い人」になることが説かれた。 |
| この研成義塾からは、多くの逸材が育ち、昭和13年、井口が亡くなる年まで続いた。 |
| 義塾の卒業生は800名近くにのぼり、朝日新聞の自由主義評論家清沢冽や銀座ワシントン靴店店主東条たかし、百姓をしながら評論家であった斎藤茂など、評論家、実業家、芸術家、学者として名の知られた人も輩出したが、多くは地域にとどまり、誠実な一生を送っている。 |
井口と内村鑑三
| 井口が敬愛した人物に、明治から昭和初期の思想界に多大な影響を与えたキリスト教徒内村鑑三がいる。 |
| 内村は何度も義塾を訪ね講演などを行い、井口に深い理解と高い評価を送った。 |
| 井口を支えたのは、経済的には相馬愛蔵であり、精神的には内村鑑三であった。 |
| その内村が明治34研成義塾を訪ねて次のように記している。 |
| 「南安曇郡東穂高村の地に研成義塾なる小さな私塾がある。 |
| 若し之を慶應義塾とか早稲田専門学校とか言ふやうな私塾に較べて見たならば、実に見る影もないものである。 |
| 其建物と言へば二間に四間の板屋根葺きの教場一つと八畳二間の部屋がある許りである。 |
| 然し此の小義塾の成立を聞いて、余は有明山の巍々たる頂を望んだ時よりも嬉しかった。 |
| 此の小塾を開いた意志は蝶ケ岳の花崗岩よりも硬いものであった。 |
| 亦之を維持する精神は万水よりも清いものである。 |
| -以下略」(「入信日記」『万朝報』)。 |
信州教育への影響
| その後、昭和3年研成義塾が創立30周年を祝ったとき、内村は病気のため出席できず、祝辞が代読された。 |
| その中で内村は、井口をソクラテス・ペスタロッチ・中江藤樹という内外の偉大な哲人・教育者と並べて評価した。 |
| このことにより、教育は人格の問題であり、知識はその次であるという信州教育の本流的発想が教育界に広まることとなり、後の手塚縫蔵、松岡弘をはじめ、信州の多くの教師に影響を与えることになった。 |
| 井口は、昭和7年、井口は脳溢血に倒れ、昭和13年、県知事に廃校届を発送、廃校許可となった。 |
| 井口はその年の7月21日に69歳で死去した。 |
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井口喜源治さんについてのひとこと紹介
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