| 師範学校に再入学した1886年(明治19年)から、女子高等師範学校附属高等女学校の助教諭となる1893年(明治26年)までに、学校教育をめぐる情勢は大きく変化した。 |
| 勤王士族の娘として教育を通じて国に奉職する道を選んだ阿くりは、自分より7、8才若い女生徒に自分が受けたものとは異なった教育を授けることになる。 |
| 1885年(明治18年)12月22日、第1次伊藤内閣が組閣され初代文部大臣には森有礼が就任した。 |
| 森は列強に伍する国民国家形成のため教育制度改革を矢継ぎ早に実施し、帝国大学を頂点とする階級的な学校制度を確立。 |
| さらに師範学校、中学校、小学校の男子生徒には兵式体操と呼称した軍事教練を導入する。 |
| これは自由民権運動によって動揺していた国内の治安維持と、帝政ドイツを範とした短期間での軍事力増強を目的とした政策であると同時に、教学聖旨以降元田永孚をはじめとする明治天皇側近によって進められた儒教主義教育に対抗する体育重視の方針を示すものだった水原1990、461-490頁、516-517頁、560-593頁。 |
| 1886年(明治19年)3月1日公布の帝国大学令、同年4月9日公布の小学校令、同年4月10日公布の師範学校令、中学校令による一連の改革でエリートの一極集中と教育の中央集権化が図られた。 |
| 師範学校と中学校にはそれまで歩兵操練が課されていたが、軍籍にない教師が指導していたため軍事教練としての意義は薄かった。 |
| 森はこれを兵式体操として整備し、陸軍省の武官が体操科を管理するよう制度改革を行っている。 |
| 軍では年少の士官の命令にも従順でなければならず、儒教主義教育から一線を画した道徳教育を必要としていたため森の政策は歓迎された。 |
| 兵式体操は正しく身体を鍛えることで精神面も高められるものとされ、各地の教育者は陸軍の体操教育を見学するようになる。 |
| 高等師範学校の士官学校化は山川浩校長の下迅速に進められた。 |
| 水原1990、226-233頁。 |
| 1878年(明治11年)5月14日の大久保利通暗殺事件に衝撃を受けた明治天皇は、同年の地方巡幸後元田ら侍補と教育についての意見をまとめ、田中不二麿によって進められてきた米国法を基とする教育政策を名指しで批判。 |
| さらに翌年8月には内務卿伊藤博文と文部卿寺島宗則に教学聖旨を下付した。 |
| これは儒教を根本精神とする徳育を中心に展開されており、前月元老院から上奏された教育令の方針に対立する主張だった。 |
| 子供は本来善であるのに教師の品行が悪いため天下の乱れを招いているとした性善説に基づく思想や、教科書は洋書を用いたものでありながら教師は適切な和訳を与えることができず、結果空論に陥り実生活の役に立たないとの教学聖旨の指摘は、巡幸での天皇自らの観察によって裏打ちされていた。 |
| 心身の強化が求められた男子に対し、女子については欧米の婦人論・女子教育論が多数翻訳出版され、その理念や教育制度の受容について活発な議論が起こった世界1981、243-248頁。 |
| 深谷1998、94-101頁。 |
| 明治10年代には尾崎行雄によるスペンサー、深間内基によるミル、鈴木義宗によるエイモス(SheldonAmos)、松島剛・井上勤によるスペンサーの訳出があり、その後も栗原亮一による評論と渋谷慥爾によるフォーセット夫妻(HenryFawcett、MillicentFawcett)、久松定弘によるデゥリング(EugenDühring)、巌本善治によるケーレー(FrancisKingCarey)、俣野時中によるボーリュ(AdolpheleHardydeBeaulieu)の訳出が続く。 |
| これらは植木枝盛・中島湘煙らの活動にも影響を与えた。 |
| 1885年(明治18年)には『女学雑誌』が創刊され、明治20年代には教育論の紹介だけでなく、その受容に関心が移っている。 |
| 1884年(明治17年)の東洋英和女学校、1887年(明治20年)のフレンド学園、香蘭女学校設置認可など。 |
| また1884年(明治17年)の跡見学校での英語教育開始、頌栄学校開校、1885年(明治18年)の明治女学校開校、1887年(明治20年)5月の華族女学校の洋装実施、1888年(明治21年)の東京女学館開校など、日本人が設立した女学校でもこの時期はキリスト教の影響を受けている。 |
| 1887年(明治20年)の高知県尋常中学女子部、私立淡海女学校、静岡女学校、1888年(明治21年)の鳥取高等女学校、済々黌附属女学校、前橋英和女学校など。 |
| 一方では1887年(明治20年)に岐阜県立女学校、1888年(明治21年)に県立愛知女学校、群馬女学校が資金難のため創立わずかで廃校となった。 |
| そこでは外国語や芸術教育が重視され、鹿鳴館外交を担う政府高官の夫人の養成、すなわち明治政府が推進する欧化主義を体現した教育が施された生田2009、158-161頁。 |
| 東京高等女学校は1872年(明治5年)創立の官立東京女学校が母体。 |
| 翌年には官制改正により文部省直轄学校となるが、森の死後1890年(明治23年)には再び女子高等師範学校の附属高等女学校となる。 |
| 『東京女子高等師範学校六十年史』や在校生だった安井てつ(1870年3月24日(明治3年2月23日)-1945年(昭和20年)12月2日)はこのころの教育について批判的に回想している。 |