| 堀越公方に内紛が起き、明応2年(1493年)11代将軍義澄の命により、伊勢盛時(以後、早雲とする)は足利茶々丸を討伐して、伊豆を手中にした。 |
| 氏親も早雲に兵を貸してこれを助けている。 |
| これは管領細川政元が起こした明応の政変に連動した動きであった。 |
| 以後、氏親と早雲は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行うことになる。 |
| 駿河の隣国・遠江は元は今川家が守護職を継承していたが、後に斯波氏に守護職を奪われていた。 |
| 遠江奪還は今川家の悲願となり父は遠江での戦いで命を失っている。 |
| 当主となった氏親も積極的に遠江への進出を図った。 |
| 遠江への侵攻の兵を率いたのは早雲で、明応3年(1494年)頃から始まり、遠江中部まで勢力下に収めた。 |
| この時には氏親は未だに遠江守護ではなかったものの、独自の立場で検地を行って守護斯波氏による支配体制を否認した。 |
| これによって今川家は事実上室町幕府からの統制を離れて守護大名から戦国大名の段階へ移ったと言われている。 |
| また、氏親は駿河本国内においても検地を実施して、領国の一円支配を推し進めた。 |
| また、安倍金山を開発して財力を増した。 |
| 早雲は更に兵を進めて文亀年間(1501年-1504年)には三河岩津城の松平氏を攻めているほか、甲斐都留郡にも出兵して郡内領主小山田氏や守護武田氏と戦っている。 |
| 一方、氏親は早雲の関東進出にも協力して両上杉合戦に介入、扇谷上杉氏に味方して山内上杉家と戦い、永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いに早雲とともに出陣して関東管領上杉顕定を破っている。 |
| 永正2年(1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎える(この頃より氏親、修理大夫を称す)。 |
| 永正3年-5年(1506年-1508年)には再び早雲率いる今川軍が三河へ侵攻して、松平長親(長忠)と戦った。 |
| 永正6年(1509年)以降は早雲の今川家の武将として活動がなくなる。 |
| この頃に早雲は政治的に今川家から独立したようで、以後は関東進出を本格化させる。 |
| 永正5年、氏親は当時の将軍足利義植を支持し、それによって正式に幕府と将軍家から遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得た。 |
| 永正8年(1511年)に遠江・尾張守護斯波義達が今川方の刑部城(浜松市)を攻め、氏親が出陣してこれを退けた。 |
| 斯波義達はなおも攻撃を続け、遠江での斯波氏との戦いが激化した。 |
| 永正13年(1516年)に引馬城(浜松市)の大河内貞綱が今川家に背き、斯波義達も加わる。 |
| 氏親は出陣して引馬城を包囲。 |
| 安倍金山の鉱夫を用いて坑道を掘って水の手を絶って降伏させた。 |
| 大河内貞綱は討ち死にし、斯波義達は出家して降伏し、尾張へ送り返された。 |
| これにより、遠江が平定された。 |
| また、永正12年(1515年)には、甲斐西郡の国人領主である大井信達に味方して守護武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時占拠している。 |
| 永正14年(1517年)氏親は信虎と和議を結び撤兵し、大井信達は信虎に降伏した。 |
| その後も、氏親後期に甲駿同盟が成立するまでたびたび甲斐への侵攻を行い、武田氏との対立が続いた。 |
| 公家の娘の寿桂尼との結婚によって京とのつながりが強まり、京の文化を駿府に取り入れたとされる。 |
| 氏親も和歌と連歌を特に好んだ。 |
| 晩年は中風にかかって寝たきりになり、寿桂尼が政治を補佐した。 |
| 死の2ヶ月前の大永6年(1526年)4月に戦国時代の代表的な分国法『今川仮名目録』を制定している。 |
| 嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的であった。 |
| 大永6年(1526年)6月23日駿府の今川館で息を引き取った。 |
| 氏親の葬儀は増善寺で執行され、「葬儀記」によると7,000人の僧侶が参加し、かくして葬儀の喪主である長男氏輝が祭文を読み、棺のつなは善徳寺の御曹司栴岳承芳(今川義元)、御位牌は花倉の御曹司玄広恵探がもって曹洞宗最高の法式で行われ、戦国大名の歴史の上でも例をみない大葬儀であった。 |