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今川氏真
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。父・義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれたためその領国を受け継... |
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今川義元
戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏の出身で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は父の... |
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今川範以
父
安土桃山時代の武士。今川氏真の嫡男で、今川義元の孫にあたる。母は早川殿(北条氏康の娘)。 |
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吉良義弥
吉良義弥(きらよしみつ)は江戸時代の旗本。吉良義定の長男。幕府草創期の高家として、朝廷との交渉に携わった。 |
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今川氏堯
江戸時代の高家旗本。吉良家の一族である岡山弥清の長男で、生母は品川高久の娘。今川直房の養子に迎えられ、跡を継いだ。 |
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大友義親
大友義親(おおともよしちか、慶長2年(1597年)-元和5年8月18日(1619年9月25日))は江戸時代の旗本。大友氏24代当主。母は高橋紹運女。夫人は今川範以の娘... |
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品川高久
江戸時代の旗本。今川氏真の次男。高家品川氏の祖である。 |
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矢島重成
「中江新八」を含むページ一覧 立花宗茂 ...石松安兵衛)*[[中江新八]](中川新八路)*[[矢島重成]](矢島石見守、左助)*[[小田部統房]](小田部土佐守、新... |
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立花宗茂
安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。大友氏の一族。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武... |
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吉良義安
母
戦国時代の三河国の武将。2つに分かれた三河吉良氏のうち西条吉良氏の出身で、養子に迎えられて東条吉良氏の当主となり、のちに徳川家康に仕えて西条吉良氏の... |
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岡山弥清
江戸幕府の旗本。高家吉良義弥の次男で、吉良上野介義央の叔父にあたる。 |
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今川氏親
今川氏親(いまがわうじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。足利氏の一門・吉良氏の庶流である駿河今川家7代当主。駿河守護。父は今川義忠。... |
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今川範政
南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名。駿河今川氏の第4代当主。 |
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清水良太郎
日本の俳優である。東京都出身。岩倉高等学校商業科卒業。同校野球部出身。血液型O型。プロダクション尾木所属。父親はものまねタレントの清水アキラ。 |
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徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
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徳川家光
江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年-1651年)である。2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる江であった。乳母は春日局(福... |
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今川範国
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名。駿河今川氏の初代当主。父は今川基氏、母は香雲院。子に範氏、貞世(了俊)、氏兼、仲秋などがいる。幼名は... |
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今川義忠
今川義忠(いまがわよしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河守護。足利氏の一門である吉良氏の分家駿河今川家6代当主。今川範忠の子。氏親の... |
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今川氏輝
戦国時代の駿河の戦国大名。今川氏の第8代当主。 |
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プロフィール
- 今川直房とは
- 高家就任
- 東照大権現宮宣下
- 高家今川氏の祖
- 系譜
- 参考文献
今川直房(いまがわなおふさ)は、江戸時代初期の旗本。今川氏13代当主。駿河国の戦国大名 今川義元の曾孫、 今川氏真の孫にあたる。江戸幕府に仕え、高家今川氏初代当主となった。初名は範英。
高家就任
| 文禄3年(1594年)、今川範以の嫡子として京都に生まれる。 |
| 慶長12年(1607年)に父範以が病没し、母が公家の大炊御門経頼と再婚したため、兄弟とともに祖父氏真に養育される。 |
| 慶長16年(1611年)12月、徳川秀忠にはじめて拝謁。 |
| のちに祖父の家禄500石を継ぐ。 |
| 寛永10年(1633年)12月には江戸参府中の知恩院門跡良純法親王の接待を行っており、この頃までには高家の職務を果たしていたと考えられる『寛政重修諸家譜』『今川系図』によると、寛永13年(1635年)12月29日に高家へ就任したことになっているが、『徳川実紀』によればこの日は直房の従五位下侍従への叙任日であり、すでに高家として扱われている。 |
| 寛永11年(1634年)6月9日には仰せを受け、将軍家光の上洛の先発として京都に赴く。 |
| 寛永13年(1636年)4月に家光が日光東照社に参詣した際には吉良義冬とともに衣紋の役を勤めた。 |
| 同年12月29日に従五位下侍従に叙任され(のち刑部大輔)、将軍が出御する際の衣紋の役・太刀の役、公卿・門跡が江戸に参府した際の接待役、京都御所への使節や伊勢神宮・日光東照社(東照宮)への代参使など、高家としての職務をこなしている。 |
東照大権現宮宣下
| 元和2年(1616年)、徳川家康が没すると朝廷は家康に東照大権現の神号を宣下していたが、家光は宮号宣下を朝廷に求めた。 |
| 正保2年(1645年)、直房は大老酒井忠勝とともに使者となり、武家伝奏の菊亭経季と交渉した結果、宣下が実現することとなり、同年12月3日に「東照宮」の宮号が宣下された。 |
| 直房が10月17日に江戸に帰還して交渉が成功したことの報告を行うと、家光はこの功績により武蔵多摩郡井草村のち上井草村・下井草村に分かれる。 |
| 現:杉並区井草、今川など)・上鷺宮村(現在:中野区上鷺宮など)、豊島郡中村(現:練馬区中村)の3ヶ村500石を加増し、今川家の家禄は近江国野洲郡長島村(現:滋賀県野洲市長島)の500石と併せて1000石となった。 |
| 直房は将軍家綱の代にも活躍し、承応2年(1653年)10月28日には左近衛少将に叙せられた。 |
| 万治4年(1661年)1月、大火で御所が炎上したことの見舞いとして上洛したのが最後の京都御使となった。 |
| 同年(5月に改元し寛文元年)11月24日没、享年68『今川系図』では享年60。 |
| 市谷の長延寺(現在は杉並区和田に移転)に葬られた。 |
高家今川氏の祖
| 鎌倉時代・室町時代も含めた今川氏歴代の中で左近衛少将に昇ったのは直房だけである。 |
| 直房は今川氏中興の祖として子孫から崇められ、命日には一族が集まって直房を偲んだという。 |
| また、姉妹ともいう。 |
| 大友義親の妻で、夫の死後剃髪)とともに、祖父氏真・母利正院の墓を自らの知行地である井草村の観泉寺(現:東京都杉並区今川)に移し、観泉寺の開基を氏真として今川家代々の菩提寺とした。 |
| 直房は氏真の弟一月長得が修行した長延寺の開基となっており、高家今川氏代々の当主は長延寺に葬られている。 |
系譜
| 『寛政重修諸家譜』によると、実子は3男2女である。 |
| 嫡男範明と二男範興が早世したため、直房の妹の孫にあたる氏堯(岡山弥清の子)に家督を継がせた。 |
| 父:今川範以。 |
| 母:利正院(吉良義安の娘)。 |
| 正室:立花宗茂養女。 |
| 筑後柳河藩の家老矢島重成の娘であるが、藩主立花宗茂の養女となった。 |
| 延宝6年(1678年)8月6日に没し、観泉寺に葬られた。 |
| 娘(大友義親室)。 |
| 娘(吉良義弥室)。 |
| 慶安元年閏正月4日死去『今川氏と観泉寺』。 |
| 慶安2年6月16日に早世。 |
| 娘(大久保忠高室)。 |
| 承応3年6月15日没。 |
| 忠高との子源三郎(寛文3年10月19日没)とともに観泉寺に葬られた。 |
| 養子:今川氏堯。 |
| 娘(松平勝広室)。 |
| 松平勝広は松平重長の子で、叔父にあたる上総国佐貫藩主松平勝隆の養嗣子であったが、家督は継がなかった。 |
| なお、勝広に代わって勝隆の養嗣子となった松平重治は、品川高如(直房の従弟)の子である。 |
参考文献
| 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)。 |
| 『寛政重修諸家譜』巻第九十四。 |
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1594年
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今川範以の嫡子として京都に生まれる |
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1607年
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父範以が病没し、母が公家の大炊御門経頼と再... |
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