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今川範国
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名。駿河今川氏の初代当主。父は今川基氏、母は香雲院。子に範氏、貞世(了俊)、氏兼、仲秋などがいる。幼名は... |
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足利義満
足利義満(あしかがよしみつ)は室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年-1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王。... |
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今川範氏
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足利尊氏
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細川頼之
南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。室町幕府管領。細川氏の本家京兆家の当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守。足利氏の一門であ... |
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懐良親王
後醍醐天皇の皇子である。母は二条為道の娘。南北朝時代、南朝の征西大将軍であったことから征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。肥後国隈府... |
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足利義詮
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大内義弘
室町時代中期の周防国、長門国、石見国、和泉国、紀伊国の守護大名。 |
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建武
後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年-56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。この元号は、漢王朝を再興した際に初め... |
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細川清氏
南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府2代将軍足利義詮の執事、伊勢・伊賀・若狭守護。三河細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)に生まれる。名は元氏で、後に... |
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斯波義将
南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護... |
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渋川満頼
室町時代前期から中期の武将、守護大名。室町幕府九州探題、備中・摂津・安芸・肥前守護。九州探題渋川義行の次男。妻は斯波義将の娘。子に義俊。 |
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今川義元
戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏の出身で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は父の... |
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大内弘世
南北朝時代の周防国守護大名。多々良姓大内氏の第9代当主。 |
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足利直義
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。河内源氏義国流、足利氏の嫡流・足利貞氏の3男。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟。足利将軍家の一門。世... |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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高師直
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。官位は三河守、武蔵守。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師... |
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後醍醐天皇
第96代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日)-延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。諱は尊治(たかはる)。 |
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足利直冬
南北朝時代の武将。室町幕府将軍足利尊氏の庶子。 |
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渋川義行
南北朝時代の武将。室町幕府の九州探題。本姓は源氏で足利氏 の一門渋川氏の出身。父は渋川直頼... http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E7%BE%... |
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プロフィール
- 今川貞世とは
- 畿内での活動
- 九州平定
- 九州探題の解任と晩年
- 文学
- 著作
- 参考・関連文献
- 関連項目
今川貞世(いまがわさだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。
畿内での活動
| 幼少時は不明だが、父に従っていた記録は残り、12、13歳頃から和歌を学ぶ。 |
| 足利将軍家内部の対立から室町幕府初代将軍足利尊氏と弟の足利直義の両派の抗争へ発展した観応の擾乱においては、父と共に将軍側に属する。 |
| 直義派や南朝勢力と戦い、正平10年/文和4年(1355年)には細川清氏と共に東寺で戦う。 |
| 室町幕府執事となった清氏が正平16年/延文6年(1361年)に失脚して南朝に下ると、父の命で講和呼びかけの為に遠江から召還される。 |
| 軍事活動のほか、遠江や山城の守護職、幕府の侍所頭人、引付頭人などを務め、正平22年/貞治6年(1367年)に2代将軍足利義詮が死去すると出家。 |
九州平定
| 3代将軍足利義満時代の建徳元年/応安3年(1370年)頃に、管領の細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された。 |
| 観応の擾乱後に南朝方の菊池武光が征西大将軍懐良親王を奉じた征西府、尊氏の庶子(直義の養子)である足利直冬等が分立し、征西府が筑前の少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた九州の平定のために派遣される。 |
| 本国・遠江で準備をした後、10月に京都を出発、建徳2年/応安4年(1371年)5月に安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠ら国人衆を招集している。 |
| 同年12月に九州へ渡り、豊前へ至った。 |
| 了俊は周防・長門の大内弘世、義弘父子等の協力も得て新興の国人勢力と連絡し、阿蘇惟村の協力を得て豊後に嫡男の貞臣を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませ、弟の仲秋は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊自身の兵は豊前から大宰府を攻めた。 |
| 文中元年/応安5年(1372年)6月には懐良親王、菊池武光等を筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点とした。 |
| この後戦局は肥後へ移り、文中3年/応安7年(1374年)7月、水島まで出兵した。 |
| 天授元年/永和元年(1375年)、水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久らの来援を呼びかけた。 |
| 三人衆のうち唯一九州探題と対立していた少弐冬資は着陣を拒んだが、島津氏久の仲介で来陣した。 |
| 水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺する挙に出た。 |
| この水島の変により氏久は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになった。 |
| また、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止めてしまった。 |
| 九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった大内氏に協力を要請する。 |
| これに対して大内弘世は難色を示したが、子の義弘は了俊を支持し、九州に援軍を派遣している。 |
| また、大内氏と婚姻関係のあった大友親世も消極的ではあったが北朝方に帰順した。 |
| 水島の変から2年後の天授3年/永和3年(1377年)には菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。 |
| 戦いは北朝方の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取った(肥前蜷打の戦い)。 |
| 蜷打の戦い以降、了俊は再び南朝方に対する攻勢を強め、弘和元年/永徳元年(1381年)には武朝を本拠地隈部城から追放している。 |
| 南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対しては5男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年10月に帰順させている。 |
| 元中8年/明徳2年(1391年)に八代城の名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏させ、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一を機に武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。 |
| 但し、氏久と伊久は天授3年にも1度降伏しているが、これは満範が国一揆を率いて日向都之城主北郷義久を攻める直前だったため、都之城の包囲が解かれた後に氏久は国人一揆の調略を行い、了俊の元へ参陣して来なかったので、天授4年/永和4年(1378年)3月に了俊と氏久は決裂、満範に都之城の再包囲を命じたが、翌天授5年/康暦元年(1379年)3月1日と3月3日に志布志城から後詰に来た氏久に敗れて満範は都之城から撤退した(蓑原の合戦)。 |
| 南北朝合一後も氏久の息子元久と対立、了俊は応永元年(1394年)に4男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任されたため、島津氏討伐は失敗に終わった。 |
| 外交では懐良親王を指すとされている「日本国王良懐」を冊封するために派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍足利義満の手に委ねた。 |
| また、高麗の使者鄭夢周とも接触して独自の交渉を行い、元中9年に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続した。 |
| これにより、大内氏にも呼びかけて倭寇(前期倭寇)を鎮圧し、倭寇に拉致された高麗人の送還などを行い、『大蔵経』を求めるなどの善隣政策を推進した。 |
九州探題の解任と晩年
| 応永2年(1395年)7月、了俊に上京の命が下り、同年8月に上京した。 |
| ところが、上京した了俊は九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として渋川満頼が任命された。 |
| 了俊が解任された理由として、。 |
| 了俊を九州探題に推薦した細川頼之が康暦の政変により失脚し元中9年に死去した為、反対派の斯波義将が管領となるなど政界構造が変化して支持基盤を失っていたこと。 |
| 後任の渋川氏が義満、義将と縁戚関係にあったこと。 |
| 南北朝合一を達成して将軍権力を確立した義満が、了俊の九州における勢力拡大や独自の外交権を危険視していたこと。 |
| などが指摘されている。 |
| 了俊は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する事となった。 |
| 後任の探題職を望んでいた大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけるが、了俊はこれを拒絶し、守護職として駿河の統治に専心した。 |
| 応永6年(1399年)には義弘が堺で挙兵し、応永の乱が起こっている。 |
| 了俊は鎌倉公方足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。 |
| 応永の乱平定後の翌応永7年(1400年)には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出された。 |
| しかし、了俊は憲定や甥の泰範の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、応永9年(1402年)には上洛し、政界に関与しないことを条件に赦免された。 |
| 晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行い、96歳前後で死去した。 |
| 墓所は静岡県袋井市の海蔵寺に所在する。 |
文学
| 和歌は幼少時から祖母の香雲院や京極為基、冷泉為秀らに学び、連歌では二条良基らに学び、二条良基主催の年中行事歌合に参加している。 |
| 禅や儒学なども行う。 |
| 『言塵集』という歌論書や、九州探題としての赴任途中の紀行文『道ゆきぶり』を残す。 |
| 吉田兼好の弟子である命松丸とも親交があり、命松丸が九州下向へ従っている事などから『徒然草』の編纂にも関わっているとも言われるが、否定的研究もある。 |
| 晩年には学者として著作に専念し、『難太平記』は古典『太平記』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、太平記に記されない一族の功績を記している。 |
著作
| 『道ゆきぶり』。 |
| 『了俊大草子』。 |
| 『難太平記』。 |
| 『了俊一子伝』。 |
| 『了俊歌学書』。 |
参考・関連文献
| 川添昭二編『今川了俊関係編年史料』私家版(九州探題史料)、1960年。 |
| 川添昭二『今川了俊』吉川弘文館(人物叢書)、1964年。 |
| 今川了俊「難太平記」『群書類従21合戦部』続群書類従完成会/八木書店。 |
| 「今川家譜」『続群書類従21上合戦部』続群書類従完成会/八木書店。 |
| 都城市史編さん委員会編『都城市史通史編中世・近世』都城市、2005年。 |
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1355年
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細川清氏と共に東寺で戦う |
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1371年
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安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明... |
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