| 1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した『仏教年鑑1930』。 |
| また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。 |
| 比叡山延暦寺戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。 |
| 1933年8月、四度加行(しどけぎょう)、1934年3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。 |
| 准教師となって安楽寺に下り多くの年譜が安楽寺住職と記すが事実ではない。 |
| 、この間『史外史伝祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。 |
| 1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った『東光金蘭帖』中公文庫1978年。 |
| 前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨い、秘教義や易学の研究に勤しんだ。 |
| 静養の明けた1941年1月31日、権律師春聴として岐阜県郡上郡嵩田村、天台宗大日坊(長瀧寺の末寺)住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、易学書『今氏易学史』を著し、神智学協会刊『神秘的人間像』(C・W・リードビーター僧正原著)を訳出、『易学史』は殷代からの史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要が刊行された。 |
| 古美術関係の著述もあり、華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。 |
| 佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。 |
| この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。 |
| 1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつりょうぎょうぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。 |
| 戦時中は東京・穏田に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、根岸・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省との親交を深めた。 |
| 1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書史料等も焼失したという。 |
| 当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を勤めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。 |
| 戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた佐倉市志津の旧家の人、蜂谷清(きよ)と再婚。 |
| かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢某は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったという。 |
| この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって('47年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」・「歓喜世界」)。 |
| 1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想「悪童」を連載した。 |
| 亡父の墓所多磨墓地はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生れた。 |
| 同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。 |
| 敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画したという(本人談)。 |
| 調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵には多くの映画人が訪れた。 |
| 時代は1948年の東宝争議の真っ只中であり、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていたという。 |
| 1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。 |
| 沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟)、四天王寺・出口常順管長の列座、雅楽伶人、職衆の先導に村人は度肝を抜かれ、「オイ。 |
| 摂河泉の古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生する。 |
| のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」短篇集『闘鶏』あとがきで、河内人は「下劣で、ケチン坊で、助平で、短気で、率直で、つまりは僕自身に似た人物」と書いている。 |
| のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。 |