| 岡田と小学校から進学・就職とともに歩み、旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)、東京商科大学(現・一橋大学)予科を経て1946年東京産業大学(1944年に東京商科大学から改称)卒業、1947年東京急行電鉄に入り同郷の先輩・黒川渉三が社長を務めていた東横映画(東映の前身の一つ)に誘われて移籍。 |
| 東映では営業畑を歩き、東映動画(現・東映アニメーション)に移動すると、同社製作のテレビアニメや劇場アニメ作品(東映まんがまつり)の多くに製作・企画などで携わった。 |
| また本社配給課長時代の1953年公開された『ひめゆりの塔』は、撮影が長引き製作に名を連ねた大川博社長が激怒し製作中止を宣告。 |
| マキノ光雄と共に大川を説得し公開された映画は、日本映画興行界空前の大ヒットとなって東映は大きく飛躍した。 |
| 大下英治『日本ヒーローは世界を制す』、角川書店、1995年、p32。 |
| 1956年東映動画取締役、1958年朝日テレビニュース社(現・テレビ朝日映像)常務取締役、1959年、東映にテレビ課を新設し初代課長『日本ヒーローは世界を制す』、p35。 |
| 1962年東映取締役、1963年関東支社長、1964年東映東京大泉撮影所長。 |
| 同年、「今のテレビは営業が命です。 |
| 営業に力を入れるべきです」と大川社長に進言し渡邊亮徳を営業部テレビ課課長に配転させる『日本ヒーローは世界を制す』、p35。 |
| 第二東映や「アイドホール」(:en:Eidophor)による劇場映写などのアイデアを生んだ"東映進歩派"といわれた栗山富郎 「 |
| 1966年東映常務取締役。 |
| 1970年、東映を娯楽会社に転換させようとした大川社長と毅・親子とそりが合わず、不本意ながら東映を退社し、有田一壽日本クラウン社長、江守清樹郎元日活常務と共に専務取締役としてユニオン映画創立に参画。 |
| 実務は江守と今田が担当し"映画五社体制"へ、外の血を入れた旧映画界にクサビを打ち込む動きとして注目を浴びた。 |
| 1971年、労組問題と大川社長の急逝で東映の二代目社長に岡田が就任し、大川家と岡田と揉めた結果東映を去った今田は、渡邊亮徳の推薦もあり再び古巣へ。 |
| 東映ビデオ代表取締役社長として東映に復帰。 |
| 翌1974年、東映アニメーション代表取締役社長兼タバック代表取締役社長就任。 |
| 知恵袋である渡邊のサポートもあり、二人三脚によって、事業多角化と頭脳集約型企業を標榜し以降、歴代最長の20年間社長を務め、労組問題に揺れた東映アニメーションを立て直し、営業部門を商品営業部、版権営業部、事業部に分割させ強化しアニメ海外輸出とキャラクター・ビジネスの増収等を図った。 |
| この年10月に「仮面ライダー」など実写作品の著作権管理を東映に移行させ、アニメ作品の著作権を東映アニメーションで専門に管理。 |
| またそれまで東映が行っていた海外販売を1975年から新設した版権営業部にやらせ東アジア、東南アジアを手始めに欧州、アメリカ等、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展。 |
| フィルム輸出と海外版権の販路拡張を推し進め、日本アニメ海外進出の推進役として多大な功績を残した『日本ヒーローは世界を制す』、p261。 |
| 「キャンディ・キャンディ」や「UFOロボグレンダイザー」は輸出した世界各国で熱い支持を受け営業活動の大きな起爆剤となった。 |
| 沖縄海洋博・アクアポリス、マリノラマ用映像制作。 |
| 東映動画とタバック内に東映オーディオ・タレント・スクールを設置し、声優養成講座開講。 |
| 1975年から「世界名作童話アニメ」製作を開始、白鳥の湖等、断続的に8年間全20巻を製作。 |
| 1976年生産者グループ(TCPG)を発足させ、商品営業部の企画・生産・販売ラインを確立。 |
| 1977年4月発足した日本商品化権協会理事長に就任。 |
| 1977年「魔女っ子メグちゃん」等、中南米向け販売を開始。 |
| 同年東映アニメーション・ファンクラブ設立。 |
| 1978年、劇場作品として初の受託作品となった『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』は前例のない大ヒットを記録し、アニメブームの中核へ躍り出た。 |
| 1979年、テレビ版で高い評価を得たアニメ『銀河鉄道999』の劇場版を初めて自主製作し、同年邦画配収成績1位を記録。 |
| これは『宇宙海賊キャプテンハーロック』の第1話を見て感激した今田が、東映動画始まって以来の社外起用としてりんたろうを監督に抜擢したものりんたろうインタビュー、小出正志『アニメクリエータになるには』ぺりかん社、2003年、p17-18。 |
| 1975年、事業部がグレートマジンガー巨大ロボットショーの実演催事用アトラクションの製作から、集客・販売と番組宣伝を兼ねたキャラクターショーを全国遊園地等で展開、これはその後拡大・発展した。 |
| 事業部はその他、遊園地やレジャー施設、テーマパーク等のアトラクションの製作や施設設計施工、アイスショーや野球場のスコアボード映像製作、歌手のコンサートの製作、催事の業務提携、「大恐竜展」「大エジプト展」などのイベントも手掛けている。 |
| 1980年、版権営業部国際部新設。 |
| 1978年、商品営業部が販売強化のため、メーカーとの共同販売プロジェクト開始、1981年にはオリジナル・キャラクターの開発・商品化、輸入ファンシー商品販売に乗り出す。 |
| 1980年から週刊少年ジャンプで連載の始まった「Dr.スランプ」のアニメ化を指示し『日本ヒーローは世界を制す』、p238、1981年にテレビ放映を開始した「Dr.スランプアラレちゃん」は、劇場版にも観客が殺到する大ブームを生み、1983年から放映した「キン肉マン」はキャラクター商品も子供たちの間で大流行。 |
| 1984年から放映の「世紀末救世主伝説北斗の拳」も大ヒットした。 |
| その他、在任中放送または制作した作品に「一休さん」、「聖闘士星矢」、「美少女戦士セーラームーン」、「スラムダンク」などの大ヒット作がある。 |
| 1986年にはフィリピンに同社初の海外製作拠点を設立し1992年EEI-TOEIとして東南アジアにおける海外製作拠点とした。 |
| また同社初の自己資産の購入他、1973年から設けられたコンピューター研究開発室を発展させ、ファミコンゲームソフトの開発や大手電気メーカーと組んでアニメデジタル化を実現。 |
| 在任中東映アニメーション、過去最大の経営発展を成し遂げ同社社長を退任、1994年まで会長職を務め、1994年から相談役、2000年から特別顧問となった。 |
| デジタルコンテンツグランプリ2001特別賞受賞。 |
| 肺炎のため2006年6月23日に死去した。 |