| 上下中学校、広島県北川工業高等学校(現:広島県立府中東高等学校)から芝浦工業大学へ進学。 |
| 東都大学1部リーグ通算49試合出場、128打数29安打、打率.227、3本塁打、14打点の成績を残す。 |
| 1971年ドラフト2位で西鉄ライオンズに入団。 |
| 学生運動で大学がロックアウトされ授業が受けられなくなったことと、入団先が福岡であったことから卒業に要する単位が足りず、中途退学扱いでの入団であった。 |
| 1973年アメリカ1A・ローダイ・ライオンズに野球留学した。 |
| 主に三塁手として活躍していたが、1976年に関本四十四・玉井信博とのトレードで加藤初と共に読売ジャイアンツ(巨人)に移籍。 |
| 2年間在籍したのち自由契約となり、1978年にクラウンライターライオンズに復帰し、1980年限りで現役引退。 |
| 引退後は、1981年の西武二軍守備走塁コーチ補佐を皮切りに、一軍守備走塁コーチ、作戦・走塁コーチを歴任。 |
| 三塁ベースコーチとして的確な走塁判断を行い、相手のクセを見抜く能力も発揮した。 |
| 自軍の守備時、ベンチでメモ帳に相手チームの選手のクセを書き留める姿が対戦相手に脅威を与えた。 |
| 緻密な西武野球は伊原の手腕によるものと評価は高い東京スポーツ2009年8月8日3面。 |
| 『西武の頭脳』と呼ばれるほど永きに渡ってコーチを務めてきたが、1999年オフ、東尾修監督との野球観の違い、フロントの首脳陣若返り策により解任。 |
| 2000年に阪神タイガースの守備走塁コーチに就任するが1年で退団し、翌2001年、西武に作戦・走塁コーチとして復帰。 |
| 同シーズン限りで東尾監督が勇退し、次期監督と目されていた伊東勤が現役続行を望んだため、監督就任要請を受諾。 |
| 就任1年目の2002年、首位を独走し、球団史上最高および新人監督勝利数新記録の90勝を挙げて4年ぶりのリーグ優勝を果たす。 |
| 三塁コーチスボックスから指示を送る姿は他球団に強烈な印象を与えた。 |
| 巨人との日本シリーズでは巨人の三塁コーチを務める鈴木康友との「師弟対決」が実現したが、4連敗で日本一を逃す。 |
| 翌2003年は、後身の育成のために清水雅治に三塁コーチを任せ、好成績の2位で終わるものの、当初から予定されていた伊東が監督に就任するため辞任。 |
| 2004年にはオリックス・ブルーウェーブの監督に就任(変則3年契約=2年契約+オプション1年)。 |
| 2年連続最下位に沈んだチームの再建を期待されるが、負けが込むにしたがって選手・コーチとの間に軋轢が生じ、結局ダントツの最下位に終わった。 |
| また、近鉄との合併のあおりを受け、契約年数を残して1年限りで監督を退任した。 |
| 2005年よりニッポン放送・Jスポーツ(CS衛星テレビ)のプロ野球解説者、日刊スポーツ評論家、ベースボール・マガジン社顧問(2005年の横浜対西武の交流戦の1試合のみTVKの野球中継で解説者となる)。 |
| 2007年から巨人の野手総合コーチ(兼三塁コーチ)に就任(監督の原辰徳に対し、伊原自ら電話をかけて「OBとして立て直したい、私にやらせて欲しい」と申し出たことにより実現した)。 |
| 開幕前にヘッドコーチに肩書変更。 |
| 2008年は三塁コーチを緒方耕一に任せ、ベンチワークの強化のためヘッドコーチに専念する。 |
| 一軍コーチ陣では最年長となる。 |
| 2009年、原がWBC日本代表監督に就任した関係で、3月のオープン戦において監督代行を務めた。 |
| この年の日本シリーズに勝利したことで、それまで記録していた自身の日本シリーズ連敗記録は6で止まった。 |
| 2010年にリーグ4連覇と日本一連覇を逃した責任を取りコーチ辞任。 |
| 球団の慰留を受け球団編成本部シニアアドバイザーに異動した |