| 陸軍少将時、日露戦争時に旅順要塞攻撃のために編成された第3軍(総司令官・乃木希典大将)の参謀長に就任した(旅順攻略戦の推移と状況は旅順攻囲戦の項を参照のこと)。 |
| 参謀長に任命された理由として、砲兵科出身のため要塞攻めに適任とされた事、英独仏への留学経験から最新の軍事智識に明るいと考えられた事が挙げられる。 |
| 日清戦争において第2軍参謀副長として旅順攻略戦を経験していたことも考慮されたと思われる。 |
| 第3軍は、大連から遼東半島を西進してゆく過程でロシア軍の防禦陣地との戦闘を幾度も経験し、ロシア軍の防御が堅固であることを十分に認識していた。 |
| 為に伊地知参謀長は慎重な態度を取るようになった。 |
| 悲観消極的とも表されたこの姿勢は、配下の旅団長に「老朽変幻の人物を挙げて参長の位置に置くは決して軍隊の慶事にあらず」と批判された第十一師団第二十二歩兵旅団長神尾光臣少将が内地の長岡参謀次長に宛てた書簡中の文言。 |
| 日付は7月20日。 |
| 要塞本体の包囲が成る頃に井口総司令部参謀が第3軍司令部を訪問をする。 |
| 総司令部は既に北方に進んでおり、井口は病気のため大本営に残っていたのを総司令部に合流する途中に立ち寄った。 |
| 大本営は旅順要塞の攻略を楽観視しており、また第3軍を早期に北方戦線に加入させたいという思惑があった。 |
| 井口は、大本営の意向である「旅順攻撃の時日を短縮すべきこと」を司令部に要請するが、遼東半島各地での戦闘でロシア軍の堅固な防御を実戦で経験し慎重な態度をとるようになっていた伊地知ら第3軍側は、「急進突撃一挙これを陥るる如きは必敗を免れざる」と頑として拒否した。 |
| ために両者の仲は掴み合い寸前にまで険悪なものとなったと伝えられる。 |
| 包囲が成り、軍司令部は柳樹房なる場所に置かれた。 |
| ここもしばしば敵弾に見舞われる場所であったが、第一回総攻撃にあたっては戦闘司令所は激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所(団山子東北方高地)にまで進められ、主にここで指揮が取られた。 |
| ロシア軍は旅順要塞を、要所にコンクリート(当時は仏語の『ベトン』と呼ばれていた)を用い、鉄条網、機関銃、大砲、地雷をもって防禦された近代要塞に変貌させていた。 |
| 第一回総攻撃は東西盤龍山保塁の確保という戦果に留まり失敗に終わり、以後の攻撃方法が議論された。 |
| 軍司令部側は強襲法を改め正攻法の採用を提案したが、実戦部隊である各師団代表は強襲法の継続を主張した。 |
| 伊地知参謀長は採決にあたりその責にありながら決断しかね、最終的には軍司令官の決断によって決着した。 |
| 旅順攻略戦の進展が思わしくなく、一時期、満洲軍総司令部や大本営から第3軍司令部の人事刷新の意見が出されたこともあったが、攻略戦の終結まで第3軍参謀長として任務を全うした。 |
| その後、旅順要塞司令官に任命され軍参謀長としての職務を終えた。 |
| 日露戦争終結後の国内凱旋は、北方より帰還する第3軍司令部に同道した。 |
| 伊地知の評価には否定・肯定両論が存在している。 |
| 否定側の考えを代表するものとして、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』での描写が挙げられる。 |
| この印象により、伊地知は作戦・指揮能力に欠けた無能者である否定的に評価され、これが一般的に広く知られている。 |
| のが現状である。 |
| 総じて旅順要塞攻撃において融通の利かない硬直した作戦指揮により味方の損害を拡大させた点が批判されており、これは伊地知個人への批判に留まらず、このような人材を参謀長に据えたのは、藩閥調整人事・お手盛り人事当時の陸軍首脳部は薩長出身者で占められていたことから、このような人事が行われたと想像されている。 |
| 当時の四個軍司令官・参謀長の8人中6人が薩長出身者で占められ、満州軍総司令官・総参謀長も薩長出身者であったの弊害であるという批判に拡大される事が多い。 |
| また戦後に日露戦争の戦功により男爵となった事も、総花的人事であると批判されている。 |
| また大将昇進せずに中将で退役した点を挙げて、伊地知の評価はさほどのものではなかったとする指摘も見受けられる。 |
| このような否定的評価に対して、これを不当であるとする意見半藤一利著『日本参謀論』(図書出版社刊 1989年)では、対談の中で秦郁彦は『大変な秀才でドイツに二度も留学しているし、当時の陸軍では最も嘱望された参謀将校の一人だったわけで、確かに乃木司令官とのコンビネーションはうまくいかなかったけれども、公平に見て、それほどひどい参謀長ではなかったと思いますよ。 |
| ともかく日露戦争後、男爵になっているんですから。 |
| ただ、乃木大将が軍神になったものだから、悪いのはすべて伊地知だ、ということにされてしまった。 |
| たとえば、彼が第三軍参謀になったのも、大山元帥の女婿だから、つまり情実人事だというのが定説になっていますが、実は妻君が大山の姪ですから、親類ではあったけれども女婿じゃないんです。 |
| そういうところから話が膨れていくわけです』と述べている。 |
| もある。 |
| 日露戦争勃発当時の伊地知の評価を客観的に見れば、数度の海外留学を経験した人材であり、また専門が砲兵であり、日清戦争時の旅順攻略戦に於いて現地を踏んだ経験があり、さらに欧州留学中に乃木軍司令官と懇意であった。 |
| これら諸々を考慮すれば、伊地知が第3軍参謀長に任じられるのは何の不思議もない桑原嶽著『名将乃木希典』(中央乃木会刊2000年)より。 |
| また桑原氏は「平時ならばとにかく一国の存亡を賭けた大戦争で、一軍の安危を担う将帥の人事を、まるで自民党の派閥人事と同一視している司馬氏の浅薄な考えは、彼独特の偏見と独断から生まれたも。 |
| ので、ただ滑稽というより他に言いようはない」と藩閥調整人事であるという司馬氏の見方を厳しく批判している。 |
| 旅順に於ける作戦・指揮能力の評価については、第3軍への命令が『旅順を速やかに攻略すべし』攻撃目標は「根拠地の覆滅」であり「旅順艦隊の撃滅」ではないということとされていることを考えれば、東北正面を主攻撃目標として一挙に要塞の死命を制する事を絵mざした事は妥当な判断である。 |
| 旅順要塞を防禦する側がその防戦意図を断念したのは、203高地奪取(要塞北西)によるものではなく、それから約一ヶ月後の要塞東北面の主要拠点の陥落によることを考慮しても、旅順要塞で最も堅牢な東北正面の攻撃に拘った作戦立案は、的を射たものであった旅順艦隊の問題についても、第3軍の攻撃によって守備兵力及び砲弾薬の欠乏に陥った要塞を援護するために、旅順艦隊は艦載砲を陸揚げして乗組員を陸上戦闘に充てることになり、結果、旅順艦隊の戦闘能力は事実上失われていた。 |
| 第3軍が要塞攻略に固執したことによって、旅順艦隊の無力化という目的も達成されていたことになる。 |
| (成美堂出版、『近代戦の先駆 日露戦争』P88記述より)。 |
| 以上を鑑みれば、彼が日露戦後に男爵を授爵した事は、彼の軍人としての能力を客観的に評価したものといえる。 |
| 上に挙げたように、伊地知が大将昇進せずに退役したことを指して彼の評価を疑問視する指摘があるが、彼は同期トップで中将となっており、また病気により予備役となった時点で同時の人材で大将となった者が居ない事を考えれば、全くの的外れな指摘である。 |
| 彼の評判が悪いのは、前述の秦氏の指摘にあるように乃木が軍神として祭り上げられたことの反動によるものという説がある。 |
| 他に、旅順攻撃失敗の原因は弾薬の不足であるとして、総司令部や大本営に対して厳しく補給を請求した「旅順攻略意の如くならざるは一に砲弾の不足にありとの事を、貴軍参謀長がしばしば公言せりとは、戦地より帰来せる者の風聞として聞き及ぶところなり」『公爵山県有朋伝』ことによるという説もある。 |
| 大正期以後、日本陸軍は、日露戦争の経験と第一次世界大戦の観察から、日本の貧弱な国力と工業力をもっては近代戦の莫大な消耗に到底耐え得ないという判断から、精神力を基盤とする白兵戦力、指揮官の意志力、統率の妙などの無形的戦力に大きな期待を寄せることになる前原透『日本陸軍用兵思想史』(天狼書店、平成6年)405P。 |
| このような思想において日露戦争を考えるとき、弾丸の不足を訴え上級司令部に厳しく補給を請求した伊地知の評判が悪くなるのは当然の成り行きといえる。 |
| また、彼の剛直な性格も原因するといわれる。 |
| 同時代の人物の残した書翰等からは、芳しい評価は読み取れない。 |