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つながりの強いひと
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山田満知子
作品提供
日本のフィギュアスケートコーチ。 |
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プロフィール
- 伊藤みどりとは
- 人物
- 天才少女出現
- サラエボ五輪を目指して
- カルガリー五輪5位、1989年世界選手権優勝
- アルベールビル五輪銀メダル
- プロ転向
- 技術
- 演技
- 3回転アクセルへの挑戦
- 女子シングルの技術的先駆者
- 女子シングルの変革者
- 関連サイト
伊藤みどり(いとうみどり、1969年8月13日-)は、愛知県名古屋市出身のフィギュアスケート選手(女子シングル)。東海女子高等学校(現、東海学園高等学校)、東海学園女子短期大学卒業。1992年アルベールビルオリンピックフィギュアスケート女子シングル銀メダリスト。1989年世界選手権優勝。1985年から1992年まで全日本選手権8連覇。女子選手として世界初の3回転アクセルや3回転-3回転連続ジャンプに成功した。1989年に「もっとも高得点をとった フィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載。2004年には、日本人として初めて世界フィギュアスケート殿堂入り。2007年、国際スケート連盟(ISU)は「伊藤はたった一 ...
人物
| 三人きょうだいの真ん中で、兄と妹がいる『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.23。 |
| 伊藤が小学1年の時に両親は離婚し、子供たちは母親に引き取られる「伊藤みどりとその時代」『20世紀スポーツ列伝―世界に挑んだ日本人』読売新聞運動部著p.227。 |
| スケートを始めた頃は、全日本選手権を8連覇した渡部絵美に憧れていた『フィギュアスケートの魔力』梅田香子、今川知子著文芸春秋2004年11月p.43。 |
| 12歳当時の将来の目標は、オリンピックや世界選手権でメダルを取ること、夢はアイスショーに出演することであった「超ミニの大器伊藤みどりフィギュアスケート選手」『読売新聞夕刊』昭和56年11月28日(1)。 |
| プロフィギュアスケーターの西田美和とは、ジュニア大会のデビューが同期で、文通相手でもあったhttp://blog.livedoor.jp/nishidamiwa/西田美和/公式ブログ。 |
| 東海女子高等学校では、遠征のときを除けばほぼ無遅刻無欠席で通した『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.101。 |
| 東海学園女子短期大学に進学し、家政学科人間関係コースで出羽秀明のゼミに参加して、「塩の道」をテーマに卒業論文を書いた『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.111。 |
| 卒業後はプリンスホテルに就職する『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.165。 |
| 1991年12月には母校である東海学園女子短大に「伊藤みどりメモリアルホール」が作られている『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.144。 |
| 10歳のころから早朝、深夜の練習のためコーチの山田満知子の家に寝泊りするようになり山田満知子著『素直な心が才能を伸ばす!』青春出版社、2007年4月、p.37(同書には「小さい頃から引き取って」とある)、中学2年生のときには山田コーチ宅に住むようになる。 |
| 山田の家族には伊藤と同い年の一人娘がいたが、家庭では伊藤の方が威張っていた「伊藤みどりとその時代」『20世紀スポーツ列伝―世界に挑んだ日本人』読売新聞運動部著p.228『素直な心が才能を伸ばす!』p.48ほどであった。 |
| 小学生のときは偏食でがりがりに痩せており、肉と野菜は一切食べず、魚もサンマとイワシ以外はほとんど食べなかった『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.43-45。 |
| 成長期・思春期に入ると、偏食は治り肉が好物になったものの、今度は体重管理に苦労した小林公子「Eattowin勝つために食べる伊藤みどり」『Number1985/1/20号』pp.136-137。 |
| 中学時代には右足首を2度骨折している『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.84-92。 |
| 最初の骨折は、体重が1年で9kgも増加してジャンプの着地で足首に大きな負担がかかったのが原因だった。 |
| 骨折以外の怪我や故障も含めて、1992年に引退するまでの治療回数は500回にも上った「編集手帳」『読売新聞』1992年2月23日(1)。 |
| ジャンプの練習を重ねたため、踵が角張って変形するようになった『フィギュアスケートの魔力』梅田香子、今川知子著文芸春秋2004年11月p.136。 |
| 性格は新しいもの好きで負けず嫌い。 |
| そのため反復練習が嫌いであった「日本の100年第6部冬の華22トリプルアクセルと歩む」『読売新聞』2009年7月24日(23)。 |
| 中学時代には、伊藤の才能に着目した西武鉄道グループのオーナーである堤義明氏の経済的援助を受けるようになる『フィギュアスケートに懸ける人々-なぜ、いつから、日本は強くなったのか』(小学館101新書)宇都宮直子著小学館2010年1月14日ISBN-13:978-4098250684p.148。 |
| 高校時代にはアメリカへのスケート留学の誘いがあったが、山田のもとに残ることを選んだ『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.134。 |
| プロに転向してからも、人気のあるフランス『フィギュアスケートに懸ける人々-なぜ、いつから、日本は強くなったのか』(小学館101新書)宇都宮直子著小学館2010年1月14日ISBN-13:978-4098250684p.166や北米のアイスショーへの出演の話もあったが、日本のプリンスアイスワールドでのプロ活動を選ぶ『フィギュアスケートの魔力』梅田香子、今川知子著文芸春秋2004年11月p.156。 |
| 2004年に元劇団四季所属のミュージカル俳優の八巻大と結婚したが、2006年に離婚する。 |
| その後2009年9月に一般人男性と再婚した。 |
天才少女出現
| スケートを始めたのは、3歳のころ。 |
| 家族レジャーの一環として近所のスケートリンク(名古屋スポーツセンター)に行くようになったのがきっかけだった。 |
| 5歳のとき、このリンクで山田満知子が教えている子どもたちのスピンやジャンプを真似して遊んでいたところを、山田に見出される『素直な心が才能を伸ばす!』p.44。 |
| 山田によれば、伊藤は自分の教え子よりうまく、ジャンプは飛び抜けていたという『ジャンクSPORTSアスリートたちのナイショ話5』ベストセラーズ2003年9月p.150。 |
| 幼稚園のうちから小学生のスケート教室に年齢を誤魔化して参加した。 |
| 初級~上級の3クラスを合わせて10日間で卒業し、本格的にフィギュアスケートを習い始める『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.11-14。 |
| 1980年3月、小学校4年生で全日本ジュニア選手権を制し、同年12月の1981年世界ジュニア選手権に史上最年少の日本代表に選出され、フリーで優勝した。 |
| 11月のNHK杯に特別出場し、日本全国に演技が放送されたことにより伊藤の存在が知られるようになった。 |
| 12月の全日本選手権で3位入賞。 |
| これは稲田悦子以来45年ぶりの小学5年生(11歳)での入賞で、このことから「天才少女スケーター」と呼ばれるようになる『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.116-117。 |
| 1982年11月、練習中に右足首を骨折し、全治1ヵ月。 |
| 12月の1983年世界ジュニア選手権などシーズンの残り試合をすべて欠場した。 |
| 翌シーズン札幌で行われる1984年世界ジュニア選手権の出場を目標に努力した「骨折の後遺症なし、3回転ジャンプも楽々―フィギュアの伊藤みどり」『朝日新聞』1983年2月10日(14)。 |
サラエボ五輪を目指して
| 1983年11月にヨーロッパに遠征し、シニアでの国際デビューを果たす。 |
| プラハ国際選手権では5種類の3回転ジャンプを成功させ、国際大会で初優勝した「14歳伊藤みどり選手、プラハで絶賛」『毎日新聞』1984年1月6日(19)。 |
| オランダでのエニア・チャレンジ・カップではヨーロッパ選手権者のカタリナ・ヴィットに次ぐ2位となる「伊藤、惜しくも2位」『毎日新聞』1983年11月13日(18)。 |
| 1984年サラエボオリンピックの出場の際、前年7月1日時点で13歳の伊藤には、年齢制限のため原則として出場資格がなかった。 |
| ただし、「オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格を与える」という特例措置があった。 |
| 1984年世界ジュニア選手権(札幌)での3位以内を目標にするが、規定(コンパルソリーフィギュア)13位とほぼ絶望的となる。 |
| しかし、ショートプログラム1位、フリースケーティング1位と追い上げ総合3位となった。 |
| この結果、伊藤は出場資格を得ることができた「炎のとき高く高く五輪へ舞う銀盤の小鳥 伊藤みどりさん(名古屋市前津中2年)」『毎日新聞』1984年1月12日(23)。 |
| しかし、代表最終選考会を兼ねた1984年1月の全日本選手権において、規定で10位と出遅れ、ショートプログラムでは右足首に痛みを感じるなど不調で、2回転アクセルで転倒して5位。 |
| フリースケーティングで1位と追い上げたが加藤雅子に次ぐ総合2位に終わった『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.120-122。 |
| 日本の女子シングルのオリンピックと世界選手権への出場枠は各1名であったため、日本スケート連盟は加藤をオリンピックへ、伊藤を世界選手権へ派遣した。 |
| 伊藤は、1984年オタワの世界選手権に初めて出場し、7位に入賞した。 |
カルガリー五輪5位、1989年世界選手権優勝
| 1985年、中学校3年生で全日本選手権初優勝。 |
| 以後、1992年まで優勝を重ね、渡部絵美と並ぶ史上最高8連覇を達成する(後に1996年大会も制し、通算9回優勝)。 |
| この年の東京での世界選手権では、規定競技前日に右足首を骨折し棄権した。 |
| 1987年の世界選手権は、規定の出遅れから総合8位に終わるが、翌年のカルガリーオリンピックの出場枠2を確保する。 |
| 1988年1月、全日本選手権で優勝して、念願だったカルガリーオリンピックへの初出場を果たす。 |
| 大会には「女らしさ」「優雅さ」を意識した演技で競技に臨んだ『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.125。 |
| 規定で10位につけ、ショートプログラムは4位で暫定8位となり、入賞の目処が立った。 |
| フリーでは5種類の3回転ジャンプを7度決め、思い通りの演技にガッツポーズを演技終了直前に見せた。 |
| 演技終了前から2万人の観客のスタンディング・オベーションを受ける。 |
| 技術点では5.8-5.9点と出場選手中最高点をマークし再びスタンディングオベーション。 |
| 芸術点は5.5-5.7点(芸術点だけで5位)と低く抑えられたため、観客からはブーイングが起きた『五十嵐文男の華麗なるフィギュアスケート』白石和己著新書館1998年10月p.129。 |
| この演技によってフリー演技だけで3位、総合成績で5位入賞を果たした『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.128-132。 |
| なお5位入賞は、1964年インスブルック大会の福原美和と並ぶ冬季五輪のフィギュアスケート日本代表選手最高位の記録(当時)で、6位以内の入賞は1980年レークプラシッド大会の渡部絵美以来8年ぶりだった。 |
| 大会最終日のエキシビションでは当時としては珍しく、総合5位ながら演技者の1人に選ばれた『敗因の研究[決定版]』日本経済新聞運動部編2002年1月7日p.119。 |
| 1988年7月、国際スケート連盟のルール変更によって規定の課題数が3課題から2課題になった。 |
| 1988年11月、愛知県フリー選手権で、競技会では女子選手として世界初の3回転アクセルに成功『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.133。 |
| 1989年1月の全日本選手権では、規定で初めてトップに立ち5連覇を達成する『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.135。 |
| 1989年世界選手権は、カルガリー五輪のメダリスト3人が引退したため、4-6位のジル・トレナリー、伊藤、クラウディア・ライストナーの争いになった。 |
| フリープログラムでは、女子選手としては初の3回転アクセルを着氷が乱れたが決め、6種類の3回転ジャンプも成功させた。 |
| 1989年NHK杯では、自身2度目の芸術点6.0を獲得(NHK杯では初「NHK杯30周年記念心に残るNHK杯」『フィギュアスケートDaysvol.8』ダイエックス出版、2009年2月、pp.54-55)。 |
| しかし、11月に左足首を痛め、1991年世界選手権大会1ヶ月前に右あご下の唾液を分泌する部分にできた結石を除去する手術のため入院するなどして、大会に臨んだ。 |
| オリジナルプログラムでの直前の6分間練習中に、レティシア・ユベールと接触して相手のエッジが左足の靴に突き刺さり、左脇腹を強打し負傷した。 |
アルベールビル五輪銀メダル
| 1991年11月のラリック杯は、アルベールビルオリンピックの有力選手が集まる大会となった。 |
| 伊藤はこの大会で前年の世界チャンピオンのクリスティ・ヤマグチに逆転して優勝し、アルベールビルオリンピックの優勝候補の筆頭となる。 |
| 3回転アクセルを決めたことについて稲田悦子は「最後に決めたトリプルアクセルには、自分のスケート人生をかけたんだという気迫が感じられました」『毎日新聞夕刊』2月22日(13)と、感想を述べた。 |
| 翌日のエキシビションの際、「レイン・ストーリー」と「レ・ミゼラブル」のテープを名古屋に忘れてきていたため、NHKの衛星回線を使ってアルベールビルまで送ってもらった『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.156-158。 |
| 長野オリンピック招致活動では、1991年6月のバーミンガムでのIOC総会に小谷実可子とともに競技者代表として出向き、現役選手の立場から招致演説をした『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.173。 |
プロ転向
| 1995年に日本スケート連盟の要請によって、長野オリンピック出場を目指してアマチュアに復帰する。 |
| 1998年2月7日に行われた長野五輪開会式では聖火台に聖火を点す役を務めた。 |
| 伊藤と共に、1976年インスブルック五輪銅メダリストトーラー・クランストン、カタリナ・ビットのコーチユッタ・ミューラーも表彰された |
技術
| 元全日本チャンピオンでフィギュアスケート解説者の五十嵐文男によると、ジャンプは正確で高さがあり、右足のフリーレッグが左足の膝上の高い位置で巻き足になるのが特徴であったという。 |
| 元フィギュアスケート選手の今川知子によると、ジャンプの助走やジャンプ後の滑りでも失速しなかった『フィギュアスケートの魔力』梅田香子、今川知子著文芸春秋2004年11月p.163。 |
| 東京大学体育学研究室の吉岡伸彦(1994年当時)の分析によると、伊藤のジャンプは踏み切り時の最高速度秒速8m、高さ約70cm、滞空時間約0.73秒、着氷時に片足に掛かる荷重約250kgで、ジャンプ時のある時点での速度は男子をも凌ぐとされたテレビ朝日「驚きももの木20世紀」1994年2月4日放送。 |
演技
| カルガリーオリンピックのフリー演技後には、当時女子フィギュアスケートの選手としては前代未聞のガッツポーズを見せ、現地で好評を博した『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.128-130こともあった。 |
3回転アクセルへの挑戦
| その後、伊藤のほかに国際大会で3回転アクセルを成功させた女子選手は、トーニャ・ハーディング(1991年世界選手権)、中野友加里とリュドミラ・ネリディナ(2002年スケートアメリカ)、浅田真央(2004年ジュニアグランプリファイナル)の4選手だけに留まっており、オリンピックで3回転アクセルを成功させた女子選手も2010年バンクーバーオリンピックでの浅田真央のみである。 |
女子シングルの技術的先駆者
| 1988年愛知県選手権で公式戦初、1988年NHK杯で国際大会初、1989年世界選手権、1992年アルベールビルオリンピックで大会初。 |
| 女子選手として初めて3回転アクセルからのジャンプコンビネーションに成功したのは、トーニャ・ハーディング(1991年10月スケートアメリカのオリジナルプログラムでの3回転アクセル-2回転トウループ)である。 |
| 伊藤は同年10月の東日本選手権のオリジナルプログラムで3回転アクセル-2回転トウループを、同年12月のNHK杯でも成功した。 |
| なお、1991年11月のラリック杯のフリー直前練習では、3回転アクセル-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させている山本夢子「目指せ雑学王!スケートトリビア」『フィギュアスケートDaysvol.3』DAI-X出版、2007年5月、pp.78-79。 |
女子シングルの変革者
| 伊藤が世界選手権で3回転アクセルに成功したことによって、当時、芸術性が重要視されていた女子シングルにもジャンプという魅力があることを世界が知るようになった『littlewings―新世代の女子フィギュアスケーター8人の素顔』双葉社2003年12月p.12『素直な心が才能を伸ばす!』には「それまでは優雅に氷上を舞う芸術だったフィギュアスケートを、競い合うスポーツに変革させたとまで賞賛され」た、とある(p.52)。 |
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1969年
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伊藤 みどり(いとう みどり)は、愛知県名古... |
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1980年
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ポーランドのグーセゴルツ・フィリポフスキー... |
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