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つながりの強いひと
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桂太郎
妻
日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄(きよずみ)元老井上馨とは義理の親子の... |
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明治の教育者。日本の女子教育の先駆者と評価される。初名はうめ(「むめ」と書いた)で、1902年に漢字表記に改めて「梅子」とした。 |
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江戸時代末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家。明治期の政府高官の中でも保守派を代表する一人である。土佐三伯の一人(他に板垣退助・後藤象二郎)。... |
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大木喬任
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曾禰荒助
曾禰荒助(そねあらすけ、嘉永2年1月28日(1849年2月20日)-9月13日)は日本の政治家。 |
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渋沢栄一
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ローレンツ・フォン・シュタイン
師事
ドイツの法学者・思想家。フランス初期社会主義・共産主義思想、並びにプロレタリアート概念をドイツにおいて、初めて学術的にまとまった形で紹介した。 |
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ウラジーミル・ココツェフ
帝政ロシアの政治家。皇帝ニコライ2世の下、首相、大蔵大臣などを歴任した。日本との関係では伊藤博文が安重根に暗殺される直前にハルピンで会談予定となって... |
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松本剛明
日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(4期)、青山会幹事長(初代)。民主党政策調査会長(第8代)、衆議院議院運営委員長(第70代)、外務大臣(第145代)... |
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李垠
初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子。母は純献貴妃厳氏で純宗の異母弟。同国最後の皇太子であり、日本の王公族、李王。大韓帝国時代の称号は英親王。 |
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西園寺公望
日本の公家、政治家、元老。位階・勲等・爵位は贈従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。 |
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プロフィール
- 伊藤博文とは
- 生い立ち〜松下村塾入門
- 英国留学
- 挙兵
- 明治維新
- 初代内閣総理大臣就任
- 大日本帝国憲法発布
- 日清戦争
- 日露戦争
- 韓国統監府初代統監
- 暗殺
- 死後
- 明治天皇との関係
- 系譜
- 関連サイト
伊藤博文(いとうひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日)-1909年(明治42年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「 滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。(諱の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある)。位階は従一位。勲等は大勲位。 爵位は公爵。兵庫県知事(初代)、工部卿(初代)、内務卿(第4・6代)、宮内卿、内閣総理大臣(初・5・7・10代)、 宮内大臣(初代)、枢密院議長(初 ...
生い立ち〜松下村塾入門
| 周防国熊毛郡束荷村字野尻現山口県光市束荷字野尻の百姓・林十蔵(後に重蔵)の長男として生まれる。 |
| 母は秋山長左衛門の長女・琴子。 |
| 家が貧しかったため、12歳ごろから奉公に出されたという。 |
| 父・十蔵が長州藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防国佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文父子も足軽となった。 |
| 安政4年(1857年)2月、江戸湾警備のため相模国に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と出会い、その紹介で吉田松陰の松下村塾に入門する。 |
| 伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。 |
| 松蔭が安政の大獄で斬首された際、桂小五郎の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸をひきとることになる。 |
| その後、同門の久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・井上聞多らと倒幕運動に加わる。 |
| 文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三とともに塙次郎塙次郎の子、塙忠韶は明治維新後政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、その後文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛へと一旧幕臣でありながらと異例の出世を経験した。 |
| これについて司馬遼太郎は伊藤が後年自責の念から忠宝を礼遇したのではないかと推測している...「死んでも死なぬ」『幕末』収録より。 |
| ・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動した。 |
英国留学
| 上段左から遠藤謹助、野村弥吉、伊藤、下段左から井上聞多、山尾庸三。 |
| 文久3年(1863年)には井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。 |
| 伊藤の荷物は文久2年(1862年)に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。 |
| ロンドン到着後ヒュー・マセソンの世話を受けアレクサンダー・ウィリアムソン(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの教授、化学者)の邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。 |
| ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館、美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。 |
| 留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。 |
| 元治元年(1864年)、4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走する。 |
| 横浜上陸後、英国公使ジョン・オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見。 |
| しかし、伊藤、井上両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。 |
| 伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。 |
| 藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。 |
| そして、この和平交渉において、天皇と将軍が毛利藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金を幕府に要求するようになる。 |
挙兵
| 長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。 |
| この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。 |
| その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。 |
| 後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。 |
明治維新
| 右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允。 |
| 維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府の様々な要職を歴任する。 |
| 兵庫県知事時代の明治2年(1869年)1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、。 |
| #兵馬の大権を朝廷に返上。 |
| #世界万国との通交。 |
| #国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与。 |
| #「世界万国の学術」の普及。 |
| #国際協調・攘夷の戒め。 |
| 明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。 |
| のちにこれは、内務卿大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。 |
| また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、わが国最初の貨幣法である新貨条例が制定される。 |
| 明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う。 |
| 明治7年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し宰相ビスマルクと会見している。 |
| 大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年(1872年)5月に品川―横浜間で仮営業を始め、同年9月、新橋までの全線が開通した朝日新聞2008年6月3日付記事。 |
| 当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。 |
| だが、征韓論争では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。 |
| このとき、木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、1875年(明治8年)1月の大阪会議を斡旋する。 |
| 大久保暗殺後は内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の一人として辣腕を振るう。 |
| 1879年(明治12年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる。 |
| 1881年(明治14年)1月、井上馨、大隈重信と熱海で会談。 |
| 同年10月14日、大隈が下野し、明治政府は1890年(明治23年)に国会を開設することを約束。 |
| 1882年(明治15年)3月3日、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。 |
| のちにオーストリアのウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタイン博士に師事し、歴史法学や行政について学ぶ。 |
| これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。 |
| 1885年(明治18年)2月、伊藤は朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清国に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している。 |
初代内閣総理大臣就任
| 1885年(明治18年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。 |
| 衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。 |
| しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。 |
| 一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。 |
| 太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。 |
| つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。 |
| 1886年(明治19年)2月には各省官制を制定し、3月には帝国大学(今の東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設されるが、これを支援した。 |
| 1888年(明治21年)4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任。 |
大日本帝国憲法発布
| 1887年(明治20年)から夏島で伊東巳代治、井上毅、金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。 |
| 1889年(明治22年)2月11日、黒田内閣のもとで大日本帝国憲法が発布される。 |
| 1892年(明治25年)には吏党の大成会を基盤にした政党結成を主張するが、天皇の反対により頓挫する。 |
日清戦争
| 伊藤が2度目の首相を務めていたとき、朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、8月に宣戦布告し、日清戦争がおこる。 |
| 翌年の1895年(明治28年)4月に、陸奥宗光とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約(下関条約)に調印する。 |
| この下関条約(馬関条約)がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、第2次伊藤内閣はこれを受け入れる。 |
| 1898年(明治31年)1月、第3次伊藤内閣が発足。 |
| 9月には清国の北京で慶親王・康有為らと面談、光緒帝に謁見し、10月には張之洞・劉坤一と会談している。 |
日露戦争
| 日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らとともに日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシア帝国との不戦を主張した。 |
韓国統監府初代統監
| 1905年(明治38年)11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。 |
| 近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている |
暗殺
| 1909年(明治42年)10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃された。 |
死後
| 霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、1959年(昭和34年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。 |
明治天皇との関係
| 明治10年代(1877年-1886年)、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でないこともあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う面があり、機務六条を天皇に提示して認めてもらっている)。 |
| 伊藤之雄『伊藤博文近代日本を創った男』講談社、2009年を知った明治天皇は、1898年(明治31年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。 |
系譜
| 林助左衛門の子、十蔵は萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した『海南新聞』1909年(明治42年)3月18日号の記事によると、同年3月16日松山道後を訪れた伊藤博文は、歓迎会演説の中で自らの出自に就いて「予ノ祖先ハ當國ヨリ出デタル者ニテ、伊予ニハ予ト同シク河野氏ノ末流多シト存スルガ、予ノ祖先ハ300年以前ニ於テ敗戰ノ結果、河野一族ノ滅亡ト共ニ中國ヘ移リタル者テ「通起(みちおき)」ト称シ慶長16年(1609年)5月26日ニ死歿シタルガ故ニ、明年ニテ恰モ300年ニ相当ス。 |
| 早川隆の著書『日本の上流社会と閨閥』211、214頁によれば、「もともと伊藤の家は水呑み百姓で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩の伊藤という中間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。 |
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1841年
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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日... |
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1854年
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周防国佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養... |
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