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つながりの強いひと
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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島津斉彬
友達
江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主(在任:嘉永4年(1851年)-安政5年(1858年))。島津氏の第28代当主である。 |
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松平春嶽
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高野長英
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山内容堂
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大村益次郎
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制に... |
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松平慶永
松平慶永 まつだいら よしなが
文政11年9月2日 〜明治23年6月2日 (1828〜1890) 写真1:近世名士写真 其2 白黒 ; 27.0×21.0cm 東京生まれ。幕末の... |
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伊達宗紀
江戸時代後期の大名。伊予国宇和島藩の第7代藩主。第6代藩主・伊達村寿の長男。正室は鍋島治茂の娘・観。子は伊達宗徳(三男)、松平忠淳(四男)、正子(松... |
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日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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阿部正弘
江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府老中首座。幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部家宗家11代。 |
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山口直勝
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山口直勝(やまぐちなおかつ、安永6年(1777年)-文政8年(1825年)は江戸時代の旗本。三千石。相模守。山口直清の子。母は山口直承の娘・嘉智子。宇和島藩主... |
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徳川慶喜
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職... |
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プロフィール
- 伊達宗城とは
- 経歴
- 藩政時代
- 明治維新以後
- 年表
- 系譜
- 蒸気船の建造
- 関連書籍
伊達宗城(だてむねなり)は、日本の大名・政治家。宇和島藩8代藩主。 爵位は伯爵。大身旗本・ 山口直勝の次男。母は蒔田広朝の娘。正室は 鍋島斉直の娘・益子。祖父・直清は宇和島藩5代藩主・ 伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物である。
経歴
| 文政元年(1818年)、江戸に生まれる。 |
| 幼名を亀三郎と称した。 |
| 文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となる。 |
| 文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、翌文政12年4月11日、なかなか嗣子となり得る男子に恵まれない藩主宗紀の養子となる。 |
| 宗紀の五女貞と婚約し、婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい婚姻はしなかった。 |
藩政時代
| 天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。 |
| 宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。 |
| 幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。 |
| 更に福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「幕末の四賢侯」と称された。 |
| 彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。 |
| 阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。 |
| 13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。 |
| 一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。 |
| 直弼は大老強権を発動する。 |
| 結局、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。 |
| いわゆる安政の大獄である。 |
| これにより宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。 |
| 養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城は宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居の後も藩政に影響を与え続けた。 |
| 謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には生麦事件の賠償金支払いに反対している。 |
| また、島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。 |
| 文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間で崩壊した。 |
明治維新以後
| 慶応3年(1867年)12月、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。 |
| しかし明治元年(1868年)に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。 |
| 明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。 |
| 明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。 |
| しかし、その年に中央政界より引退している。 |
| 明治14年(1881年)には、世界周遊の一環で日本に立ち寄ったハワイ国王カラカウアを接待し、それに対する返礼として勲章を授与されている。 |
| カラカウアより宗城に授与された勲章は、宇和島伊達文化保存会に今なお保存されている |
| 宇和島伊達家は明治17年(1884年)、華族令によって伯爵を授けられた。 |
| 明治24年(1891年)、養嗣子の宗徳が宗城の維新時の功によって侯爵に陞爵された。 |
| 明治25年(1892年)、東京の今戸屋敷で病没。 |
年表
| ※日付=1872年(明治5年)までは旧暦。 |
| 文政12年(1829年)4月11日、世継ぎとなる。 |
| 文政13年(1830年)9月3日、兵五郎と改める。 |
| 天保5年(1834年)12月16日、従四位下に叙し、大膳大夫に任官。 |
| 天保6年(1835年)4月19日、元服。 |
| 天保15年(1844年)。 |
| 7月16日、家督相続し、藩主となる。 |
| 12月16日、侍従に遷任し、大膳大夫の兼任如元。 |
| 安政5年(1857年)。 |
| 11月23日、隠居。 |
| 11月25日、大膳大夫から伊予守に兼任替え。 |
| 元治元年(1864年)。 |
| 4月10日、左近衛権少将に転任。 |
| 4月18日、従四位上に昇叙。 |
| 左近衛権少将・伊予守如元。 |
| 慶応3年(1867年)12月28日、維新政府の議定(以下、特段の説明の無い限り、維新政府の官制に任官)に就任。 |
| 慶応4年(1868年)。 |
| 1月3日、軍事参謀(軍事総裁は、嘉彰親王)を兼帯。 |
| 1月8日、軍事参謀を罷む。 |
| 1月12日、外国掛を兼帯。 |
| 1月17日、職制改正に伴い、外国掛を改め、外国事務掛の設置により、同総督を兼帯。 |
| 1月20日、外国事務総督を罷む。 |
| 1月22日、大坂鎮台の督を兼帯。 |
| 1月27日、職制改正に伴い、大坂鎮台を廃し、大坂裁判所設置により、同副総督を兼帯。 |
| 2月20日、外国事務局輔を兼帯。 |
| 3月15日、大坂裁判所副総督を罷む。 |
| 閏4月21日、職制改正に伴い外国事務局を廃し、外国官設置により同知事に就任。 |
| なお、議定は罷む。 |
| 5月10日、従三位に昇叙し、参議に補任。 |
| 6月4日、仮に議定となる。 |
| 明治元年(1868年)10月20日、従二位に昇叙し、権中納言に転任。 |
| 議定に就任し、外国官知事兼帯如元。 |
| 明治2年(1869年)。 |
| 5月15日、議定を罷む。 |
| 7月14日、麝香間祗候に遇せられる。 |
| 9月12日、民部卿・大蔵卿に就任。 |
| 明治3年(1870年)7月10日、民部卿を罷む。 |
| 明治4年(1871年)。 |
| 4月27日、欽差全権大臣を兼帯し、清国に派遣。 |
| 9月27日、大蔵卿・欽差全権大臣等を罷め、麝香間祗候に遇せられる。 |
| 明治9年(1876年)。 |
| 5月23日、華族会館第一部長に就任。 |
| 12月31日、華族会館第一部長を罷む。 |
| 明治12年1879年。 |
| 8月1日、蜂須賀茂韶・岩崎弥太郎と共に東京海上保険会社設立に関与。 |
| 10月22日、明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)に祗候す。 |
| 明治14年(1881年)7月16日、勲二等に叙せられ、旭日重光章を受章。 |
| 明治16年(1883年)12月26日、修史館副総裁に就任。 |
| 明治19年(1886年)1月9日、修史館の廃止に伴い麝香間祗候に遇せられる。 |
| 明治22年(1889年)11月27日、勲一等に昇叙し、瑞宝章を受章。 |
| 明治23年(1890年)10月21日、旭日大綬章を受賞。 |
| 明治25年(1892年)。 |
| 12月17日、従一位に昇叙。 |
| 大正2年(1913年)、同年創建した宇和島鎮座の鶴島神社(現在の南予護国神社)の御祭神として祀られる。 |
蒸気船の建造
| 宗城は、医学しか知らなかった村田蔵六にオランダ語の専門書を翻訳して、船を設計するよう命じた。 |
| 一方で、和船に大砲を積んで砲撃実験を始め、更に黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せ、研究させた。 |
| 肝心要の蒸気機関は、城下にいた嘉蔵(のちの前原巧山)という提灯屋の男を抜擢して、製作を命じる。 |
| 藩を上げての試行錯誤の末、遂に実験的な蒸気船が完成した。 |
| 一般には外国人技師を雇った薩摩藩の船が日本初の蒸気船とされているが、宇和島藩の船は日本人だけで作った蒸気船の第1号であった。 |
関連書籍
| 『伊達の黒船』 短編集「酔って候」収録(司馬遼太郎)。 |
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1818年
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江戸に生まれる |
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1829年
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世継ぎとなる |
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投票数
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| ふりがな |
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| 性別 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 |
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