| 佐々氏は、元々は織田信安に属していたとされる(『武功夜話』)。 |
| 『信長公記』首巻によれば、成政が織田信長暗殺を企んだという風聞が流れ、釈明したという話が残っている。 |
| 永禄5年(1562年)の美濃攻めの際、軽海の戦いにおいて、敵将稲葉又衛門の首を前田利家と譲り合って埒があかないので、柴田勝家がその首をあげ、その次第を報告して信長に三人とも褒められたという(『常山記談』・『名将言行録』等)。 |
| しかし、『信長公記』では稲葉を討ったのは成政と池田恒興とされ、柴田・前田との逸話は後に北陸方面の攻略軍として同行した事から創作された話の可能性も高い。 |
| 実際、前田利家は一時期追放の罰を受けた十阿弥殺害事件では、成政の嘆願で十阿弥の窃盗を許したにもかかわらず顔を立てた彼に悪口を言いふらされて以降は彼を嫌っていたと述べている。 |
| 新規の家臣を召抱える際、最初に提示した禄高よりも多くの知行を仕官後に与えた事から、気前の良い殿様だという事で仕官を望む者が絶えなかったという。 |
| また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく、「いかに過去、武功を挙げたか」という部分を重視し、その話を聞くのが大好きであったとされる。 |
| 天正18年(1590年)の小田原の役で、蒲生氏郷が「三階菅笠」の馬印の使用許可を秀吉に願い出たところ、秀吉は「(「三階菅笠」は武勇高き)佐々成政が使用した馬印。 |
| それに相応しい手柄を立てれば使用を許そう」と言い、これを聞いた氏郷は満身創痍となりながらも小田原の役で活躍し、見事馬印の使用を許されたという逸話が残る(『常山紀談』)。 |
| 勝者である秀吉や前田氏に悪評を創作され、過小評価を受けがちな成政であるが、その秀吉・前田にも軍事指揮官としての力量は認められていたようで、このように多くの賞賛の記録が残っている。 |
| 富山県呉東地区では、江戸時代を通して加賀藩・富山藩の藩主として君臨し、賤ヶ岳の戦いで上司である柴田勝家を裏切った前田家とは対称的に最後まで忠節を尽くし、治水工事などの善政を布いた佐々成政の人気が高い。 |
| しかしながら高岡市を中心とする呉西地区では、三代目藩主前田利常の菩提寺が高岡にあることや、越中ながらも加賀支藩の富山藩ではなく加賀藩本領内であったことから、加賀前田百万石への敬愛の念が強い。 |
| さらさら越えでは、埋蔵金伝説がある。 |
| 「朝日さす夕日輝く鍬崎に、七つむすび七むすび、黄金いっぱいに光り輝く。 |
| 」という里謡が残され、この言葉に黄金の謎を解く鍵が秘められていると伝えられている。 |
| 「早百合(さゆり)」と言う美しい側室がいたとされる。 |
| 成政はこの早百合を深く寵愛してはばからず、早百合は懐妊する。 |
| それが嫉妬を呼んだか、ある時成政が城を留守にした時に、「早百合が密通している。 |
| お腹の中にいる子どもは成政様の子ではない」と言う噂が流れた。帰城した成政はこれを聞いて烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿いまで引きずり、髪を逆手に取り宙に引き上げ、殺してしまった。 |
| それだけでなく、早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にしてしまう。 |
| 早百合は死ぬとき、「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」(『絵本太閤記』)と叫んだ。 |
| 早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといい、それを「ぶらり火」と言った。 |
| その他にも無念の死を遂げた早百合にまつわる話は数多く残されている。 |
| ただしこの話は成政の死後に作られた創作であるとも思われ、いわゆる伝説の類である。 |
| この話以外にも、成政の死後、その影響力からか勝家と同じく評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残されている。 |
| 異説では早百合姫は「立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡する」と呪いの言葉を残して死んだとも言う(黒百合伝説)。 |
| 佐々瑞雄(成政の甥、佐々直勝の子孫)によると、母に「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません」と言われていたという佐々瑞雄 |