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つながりの強いひと
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松村宗棍
主に琉球王国時代に活躍した沖縄の武術家。琉球王国時代の最も偉大な武術家の一人であり、今日の首里手系統の空手流派のほとんどは松村の流れを汲んでいる。 |
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船越義珍
沖縄県出身の空手家。初めて空手(当時は唐手)を本土に紹介した一人であり、松濤館流の事実上の開祖。本土での空手普及に功績があった。経歴や実力について... |
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本部朝基
沖縄県出身の空手(旧称・唐手)家。「琉球の名門本部家に生まれ、唐手の戦闘術、すなわち実践の強勇に至っては、郷里に誰も知らない人はいない大剛者」(『... |
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糸洲安恒
沖縄県の唐手(からて、現・空手)家。琉球王国時代から明治にかけて活躍した唐手の大家であり、唐手の「近代化」に着手した最初の人物としても知られる。 |
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安里安恒
琉球王国時代から明治にかけての沖縄の唐手(現・空手)家。首里手の大家の一人として知られる。 |
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遠山寛賢
沖縄県出身の空手家。昭和期を代表する空手家の一人であり、糸洲安恒の晩年の高弟の一人として知られる。 |
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外間哲弘
外間哲弘 [ホカマテツヒロ] 1944年生まれ。沖縄空手道剛柔流範士9段、剛柔流拳志会総本部会長宗家、沖縄県空手博物館館長、日本空手道拳友会連盟技術顧問、... |
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喜屋武朝徳
沖縄県の唐手(現・空手)家。戦前における空手の大家の一人である。 |
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屋部憲通
戦前活躍した沖縄県の唐手(現・空手)家。松村宗棍、糸洲安恒らに師事した首里手の大家で、松茂良興作にも師事して泊手も修めた。 |
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知花朝信
知花朝信(ちばなちょうしん、1885年6月5日-1969年2月26日)は戦前から戦後にかけての沖縄の著名な空手家。小林流の開祖である。 |
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摩文仁賢和
沖縄県出身の空手家。空手の四大流派のひとつである糸東流の開祖。 |
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本部朝勇
琉球王国末期に生まれた琉球王族であり、本部御殿手古武術の第11代宗家である。弟に唐手(現・空手)家として名高い本部朝基が、直弟子には上原清吉(本部御... |
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宮城長順
沖縄県出身の空手家。空手の四大流派のひとつである剛柔流の開祖。 |
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花城長茂
はなぐすく)ちょうも、1869年-1945年)は、琉球国の唐手(現・空手)家。戦前における空手の大家の一人である。 |
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東恩納寛量
那覇手中興の祖といわれる、明治期を代表する唐手(現・空手)の大家である。 |
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新垣世璋
琉球王国末期から明治期にかけて活躍した唐手(現・空手)家であり、那覇手の大家である。 |
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湖城以正
主に琉球王国時代に活躍した、湖城流の唐手(現・空手)家である。通称は、湖城小(グヮー)。 |
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松茂良興作
琉球王国時代から明治にかけて活躍した唐手(現・空手)家であり、泊手中興の祖と仰がれる人物である。 |
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大山倍達
武道家・空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。極真空手十段。別名:マス大山。韓国名は崔永宜(최영의)。1970年代に週刊少年マガジンに連載さ... |
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許田重発
那覇手中興の祖といわれる東恩納寛量の高弟の一人であり、東恩流の開祖。 |
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プロフィール
佐久川寛賀(さくがわかんが、生没年不詳。1786年-1867年、ほか複数説あり。)は沖縄県の琉球王国時代の武術家。現代の空手の源流の一つである唐手(とうで、トゥーディー)の祖にあたり、唐手佐久川(とうでさくがわ、トゥーディー・サクガァー)とあだ名された。「彼(佐久川)の後には彼はなく、後世の世に称せられる人で、力量その他の点において、彼の右に出るほどの人はなかった」( 本部朝基)と讃えられる唐手(とうで)の大家である。
生い立ち
| right|240px|thumb|北京の琉球学館跡。 |
| 佐久川寛賀は旧姓を照屋といい、正確な生年は不明で複数説があるが、およそ18世紀後半に首里赤田村(現・那覇市首里赤田町)に生まれた(鳥堀村との説もあり)。 |
| 称号は筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)、あだ名は、唐手佐久川と呼ばれた。 |
| 易氏・浦添親方寛安から数えて九世にあたるとされる首里士族である。 |
武歴
| 佐久川が、最初誰に師事したかは明らかではない。 |
| 18世紀に来琉したとされる中国拳法家・公相君に師事したとの口碑もあるが、公相君が来琉したとされる1756年は、佐久川が生まれたとされる幾つかの説では佐久川の誕生以前の来琉になり、実際に師事できたかは疑わしい。 |
| 他に、久米村の唐名・毛国棟・嵩原通事安執に師事したと説く研究者もいるが、明確な証拠があるわけではない。 |
| 実際のところは不明である。 |
| 佐久川は20代(30代とも)の頃、中国へ渡ったとされる。 |
| この時の航海途中、佐久川が乗った船は海賊に襲われたが、佐久川は棒を使って海賊を退治したとの武勇伝が伝えられている。 |
| 佐久川は、北京で勉学に励む傍ら中国武術を修行したとされる。 |
| 佐久川の師匠は、武術教官の「イワァー」だったともいわれるが、真偽ははっきりしない。 |
| 一説には、佐久川はその後も数度、進貢船の乗員として北京へ渡り、最後は1836年に渡航し、北京滞在中の1837年、病のため北京で客死したとされる。 |
| 遺骨は北京の外蛮墓地に葬られた。 |
| これは戦前、子孫が現地に行って確認してきたという。 |
| しかし、近年ではこれに対して異論も出ており、佐久川が北京で死亡した事実はなく、1838年にはまだ八重山在番を勤めるなど健在だったとの指摘も出ている『沖縄空手古武道事典』434頁参照。 |
| 帰国していた時期に佐久川は、幼少の頃より学んだ沖縄固有の武術「手(ティー)」に、北京で学んだ中国武術を融合させて独自の武術を創造したと考えられている。 |
| ただし、これが今日の空手の原型にあたるかは不明であり、意見の別れるところである。 |
| 佐久川はその武技から「唐手佐久川」とあだ名されるが、この「唐手」は「カラテ」ではなく「トゥーディー」と読むものであり、「中国(唐)の武術(手)」を表す言葉であった。 |
| これはつまり、佐久川が「中国武術の使い手」として認識されていた事を意味しており、カラテの祖が佐久川であるという事を示すものではない。 |
| 唐手(カラテ)は糸洲安恒が学校教育への導入を目指した際につけた呼び名であるが、佐久川の唐手(トゥーディー)とは意味合いが異なる。 |
| 従って一般に空手の歴史を語る際、師弟関係から見れば、佐久川を空手の祖として見る事もできるが、中国武術とは異なる「カラテ(唐手、空手)」としての祖を考える場合には、佐久川は「空手の創始者」というよりは「中国拳法の使い手、導入者」として見る方が正確であるなど、意見が分かれる。 |
| なお、沖縄県には「佐久川の棍」という棒術が伝えられているが、これは佐久川寛賀の作という説と別人の説という二つの説がある。 |
晩年
| 1835年、八重山在番となり、同時に佐久川の名島(姓)を賜り、佐久川寛賀と称するようになったとされる。 |
| 佐久川の弟子は、伝承では松村宗棍が弟子だったといわれる。 |
参考文献
| 藤原稜三『格闘技の歴史』ISBN4583028148。 |
| 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社ISBN4404013493。 |
| 高宮城繁・新里勝彦・仲本政博編著『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年。 |
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1835年
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八重山在番となり、同時に佐久川の名島(姓)... |
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1836年
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渡航し、北京滞在中の1837年、病のため北京で... |
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