| 藤波辰巳、小沢正志(後のキラー・カーン)らと前座戦線を沸かす。 |
| 1972年10月、全日本プロレスに設立と同時に参加。 |
| 1974年には大仁田厚のデビュー戦の相手を務めた。 |
| 1974年10月より米国に遠征。 |
| カンザス州、ミズーリ州、テキサス州アマリロなどの中西部地区を中心に転戦。 |
| 1976年、全日本女子プロレス参戦歴もある当地の女子プロレスラーのベティ・ニコライと結婚。 |
| 1979年8月、プロレス夢のオールスター戦に合わせて凱旋帰国。 |
| その後、米国と日本を行き来する形で、通算8年間に渡り転戦を続けた。 |
| 完璧な英語を習得していたため、全日本ではジョー樋口と共に外国人選手の通訳を担当。 |
| また、全日本プロレス中継解説者のほか、若手のコーチ役や入門テストの試験官も務めた。 |
| ジャイアント馬場に信頼を置かれており、マッチメイクも佐藤が行っていた時期がある。 |
| 「大技は使ってはいけない」という前座試合の暗黙の了解をなくし、それを佐藤がすべて受け止めるなど、若手に自由自在に試合をさせるための空気づくりを行った。 |
| 全日本の前座や若手の育成方法に多くの改革を起こし、三沢光晴や越中詩郎らを育てた。 |
| 三沢は佐藤を「心の師」と仰いで尊敬していたという。 |
| 1981年6月11日、石川敬士とのコンビでアジアタッグ王座を獲得。 |
| この際にリングネームを佐藤昭夫から佐藤昭雄に改名する。 |
| 途中、怪我(実際は渡米)による返上があったが、1985年4月に再奪取した。 |
| 1985年7月18日、アニマル浜口&寺西勇にアジアタッグを奪われた後、渡米。 |
| 当時ジャパンプロレスが全日本に参戦していたため、選手やスタッフが飽和状態であったことから人員整理が始まっており、帰国命令が全日本より出ず、そのまま米国に定着。 |
| 1986年にはテネシー州へ転戦し、同地に武者修行に来ていた全日本所属の後藤政二と組み、同地区のインターナショナル・タッグを獲得した。 |
| 1989年末にWWFと契約し、1990年初頭よりパット・タナカとオリエント・エクスプレスを結成(マネージャーはミスター・フジ)。 |
| ザ・ロッカーズ(ショーン・マイケルズ&マーティ・ジャネッティ)やザ・ブッシュワッカーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)と抗争した。 |
| その後WWFのフロントに入り、極東地区担当として1990年4月13日の「日米レスリングサミット」、1991年3月30日の「レッスルフェスト東京ドーム」、1994年の「マニアツアー」などに携わる。 |
| 特に、1990年のSWS旗揚げ前後においては、新日本プロレスとSWSの間で起こったWWFとの提携の奪い合いに際し、WWFの交渉窓口として活躍した。 |
| 1995年、WWF入りしたハクシーのマネージャーとして『シンジャ』に変身する前後に、WWFのフロントから外れる。 |
| 後に日本に戻り、WARにブッカー兼ペイントレスラー『ザ・グレート・シンジャ』として参戦。 |
| その後、FFF(インディー統一機構)やIWAジャパンに役員として参加するも、長続きせずにフェードアウト。 |
| 家族のいる米国に戻ってからはリタイア状態だが、プロレスOB会である「カリフラワー・アレイ・クラブ」の理事などを務めている。 |
| 現在、ザ・グレート・カブキの話によるとアメリカでトラックの運転手をしているとのこと。 |
| なお、スーパーFMWでシンジャと名乗ってるペイントレスラーが居るが別人(二代目)である。 |