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つながりの強いひと
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岸信介
兄 先祖
日本の政治家、官僚。内閣総理大臣(第56・57代)。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤(さとう)。元衆議院議員、CIAエージェント。満州国総務庁次長、商... |
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田中角栄
日本の政治家。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。 |
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池田勇人
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議... |
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吉田茂
友達
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
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福田赳夫
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員、農林大臣(第27代)、大蔵大臣(第70・73・74・78代)、外務大臣(第99代)、行政管理庁... |
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伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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中曽根康弘
日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。財団法人世界平和研究所会長。中曾根康弘とも表記される。衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運... |
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鳩山一郎
日本の政治家。弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階は正二位。勲等は大勲位。1912年(大正元年)に東京市議会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議... |
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大平正芳
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(... |
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桂太郎
日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄(きよずみ)元老井上馨とは義理の親子の... |
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若泉敬
日本の国際政治学者。沖縄返還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たしたとされる人物。 |
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大下英治
政界、財界、芸能界などのルポルタージュや小説を執筆する作家。広島県安芸郡府中町生まれ。 |
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犬養毅
日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣... |
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佐藤元
日本のアニメーター、漫画家、メカニックデザイナー。東京都出身(出生地は福島県)。漫画を描く際には「さとうげん」、「松本美奈」、「まつもとみな」、「... |
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高橋亀吉
経済評論家・経済史研究者。元拓殖大学教授。文化功労者。 |
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吉田学
吉田学 出典: 東京大学 大学院理学系研究科 教員情報 Wiki 移動: ナビゲーション , 検索 吉田 学 ( よしだ まなぶ ) YOSHIDA Manabu 職名 准教授 所属 ... |
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三木武夫
日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員(19期)、逓信大臣(第52代)、運輸大臣(第17・18代)、経済企画庁長官(第6代)、科学技術庁長官(... |
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河野一郎
日本の政治家。自由民主党の実力者。いわゆる党人派の代表格として権勢を誇った。地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。従... |
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下村治
日本の経済学者、大蔵官僚。池田勇人内閣で高度経済成長のプランナーとして著名。戦後日本を代表するエコノミストの一人。近年見直しが進んでいる。 |
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近衛文麿
日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛文麿とも表記される。貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34... |
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プロフィール
- 佐藤栄作とは
- 概要
- 生い立ち
- 学生時代
- 高等文官試験
- 就職
- 官僚時代
- 政歴
- 就任
- 在任中の主たる施策
- 長期政権とその背景
- 退陣
- 総理退任後
- 略年譜
- 関連サイト
佐藤榮作(さとうえいさく、1901年(明治34年)3月27日-1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。報道などでは新字体で佐藤栄作(さとうえいさく)と表記される場合も多い。 内閣官房長官(第4代)、衆議院議員(11期)、郵政大臣(第3代)、電気通信大臣(第3代)、建設大臣(第7代)、北海道開発庁長官(第4・21・22代)、大蔵大臣(第64代)、通商産業大臣(第22代)、科学技術庁長官(第12・13代)、内閣総理大臣(第61・62・63代)などを歴任した。
概要
| 東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。 |
| 鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省の次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。 |
| その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。 |
| 民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。 |
| 一時無所属となるも、自由民主党に入党した。 |
| その後、内閣総理大臣を3期務めた。 |
| 総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。 |
| 20世紀生まれ初の総理である。 |
| 自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。 |
| また、第56・57代内閣総理大臣岸信介の実弟にあたる。 |
| なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。 |
生い立ち
| 現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業・佐藤秀助、茂世(もよ)の三男として生まれた。 |
| 父・秀助は山口県庁に奉職したが、1898年(明治31年)頃、勤めを辞め、酒造業を始めた。 |
| 佐藤家には酒造の権利が昔からあった。 |
| その権利は他家に貸していたものだったが母茂世(もよ)が分家するに当たって酒造の権利を取り戻して茂世(もよ)にあたえられていた。 |
| 秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した。 |
| 『正伝佐藤栄作(上)』 23頁。 |
| 地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している『忍魁・佐藤栄作研究』19頁。 |
学生時代
| 1907年(明治40年)小学校に入学した。 |
| 小学校の頃のあだ名は色が黒かったため「ごぼう」。 |
| 佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。 |
| 小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。 |
| 夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ。 |
| 『正伝 佐藤栄作(上)』 27頁。 |
| 『忍魁・佐藤栄作研究』18-19頁。 |
| 高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人と同じ宿に泊まり合わせた友人として急速に接近するのは、お互いに政界入りしてからである。 |
| 池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている(『正伝佐藤栄作(下)』42頁)。 |
| 池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。 |
| 入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。 |
| 試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという『正伝佐藤栄作(上)』44-45頁。 |
| 東京から電報で「五高入学おめでとう」と知らせてくれたのは松岡洋右だった。 |
| 田布施の役場に官報が届くのを待って確かめた。 |
| 山口中学の同級生も合格したし池田勇人の名もあった。 |
| 池田は一部乙類で文科、佐藤は一部丙類でドイツ法である。 |
| 『正伝佐藤栄作(上)』45-46頁。 |
| 1921年(大正10年)4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。 |
| 大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。 |
高等文官試験
| 1923年(大正12年)12月高等文官試験(行政)合格。 |
| 口述試験はあっさりしたものだった。 |
| 試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。 |
| 「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。 |
| 佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。 |
| こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方が余程悪くて、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで焼野原を歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている。 |
| 『正伝 佐藤栄作(上)』、65-66頁。 |
| 大正13年(1924年)4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 |
就職
| 当時満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右が日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたので採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。 |
| 鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたので順調に採用された『正伝 佐藤栄作(上)』、67-68頁。 |
官僚時代
| 1924年(大正13年)5月、鉄道省に入省。 |
| 以後、鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。 |
| 1944年(昭和19年)4月、大阪鉄道局長となる。 |
| 大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。 |
| 業務上の立場から陸軍と対立したためとする説がある『正伝 佐藤栄作(上)』、96-102頁。 |
| 長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。 |
| 親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。 |
| 五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている『忍魁・佐藤栄作研究』65頁。 |
| 1945年3月13~14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(現・大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した『大阪大空襲と市営交通事業』公営交通研究所、31~32頁(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)。 |
| 左遷されていたことが幸いして岸が遭った公職追放からは免れることができた『大平正芳』123頁。 |
| 1947年(昭和22年)に社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、当時運輸次官だった佐藤は西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。 |
| 1948年(昭和23年)退官し、民主自由党に入党した。 |
政歴
| 遠縁に当たる吉田茂首相とは早くから親交があり、第2次吉田内閣で非議員ながら入閣。 |
| 池田勇人と共に「吉田学校」の代表格となる。 |
| 1949年総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、犬養健法相に検察指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田首相に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。 |
| その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連恩赦」で免訴となる。 |
| 保守合同による自由民主党結成では自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎とともに従った『大平正芳』68-69頁。 |
| 兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、三木武夫政務調査会長と共に岸政権を支えた。 |
| 続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」、「安定成長」、「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった『大平正芳』125-126頁。 |
就任
| 1964年(昭和39年)7月、佐藤は池田勇人の三選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。 |
| 池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが2候補から金をもらうことを「ニッカ」、3候補から金をもらうことを「サントリー」、すべての候補(オール)から金をもらいながらそのいずれにも投票しなかった(パー)ことを「オールドパー」といった。 |
| いずれもウィスキーの銘柄(ニッカウヰスキー、サントリー角瓶、オールド・パー)にかけたもの。 |
| 、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した池田勇人242票、佐藤栄作160票、藤山愛一郎72票、灘尾弘吉1票。 |
| 佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月、池田の病気退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て、池田裁定により自民党後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した『大平正芳』123-124頁。 |
| 田中角栄はのちにこれについて、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。 |
在任中の主たる施策
| 首相在任中は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准公務員や公共企業体職員へのストライキ権付与の議論については先送りとなり、三木内閣でのスト権ストまで持ち越されることとなる。 |
| 、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定等を行なった。 |
| また、1967年(昭和42年)12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。 |
| その一方で、1964年(昭和39年)10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年(昭和40年)1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。 |
| また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている。 |
| 就任翌年の1965年8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。 |
| しかし、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約を結んだことが、交渉の密使を務めた若泉敬によって佐藤没後の1994年(平成6年)に暴露された(日米核持ち込み問題)。 |
| その後アメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、遺族が保管していたことが2009年(平成21年)12月に報道された。 |
長期政権とその背景
| 政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの政治」と呼ばれた政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、国政選挙を常に無難に乗り越え続け、ついに本格的な窮地に陥(おちい)ることなく日本政治史にも稀な長期連続政権を達成して、後進に政権を譲った。 |
| 大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した『大平正芳』124頁。 |
| 他方で参議院自民党の実力者であった重宗雄三参議院議長と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄幹事長や園田直国対委員長等に強行採決を自ら指示する事もあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定等与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭する等、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。 |
退陣
| 反共産主義で一貫して親台派アンチ中共の立場を取り続け、中華人民共和国の国際連合加盟に総理在任中は反対し続け野党だけでなく自民党内の親中派からも反発を招き、1971年(昭和46年)には福田赳夫外務大臣の不信任決議案に、河野洋平、田川誠一等親中派若手議員の一部が欠席している佐藤の親台姿勢を物語るものとして、台湾の國立故宮博物院には、佐藤夫妻が寄贈した唐三彩の「三彩天王増長天像」が展示され、「元日本國首相佐藤榮作氏及令夫人寄贈」と記されている。 |
| ニクソン・ショック(1971年7月15日および8月15日)や沖縄密約事件(1972年(昭和47年)3月27日)が相次いだことや、通訳を務めた外交官の誤訳が起因とされている日米繊維交渉の拗れ、統一地方選挙における革新陣営の台頭等で佐藤政権の求心力は弱まっていった。 |
| 佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、総裁公選も田中が宿敵福田を破って勝利した(1972年7月5日)。 |
総理退任後
| 1974年(昭和49年)晩秋、田中首相の日米にまたがる金脈問題が騒がれ始める中、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した(受賞に関する詳細は後述)。 |
| 倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記 (全7巻)』が朝日新聞社で、1996年(平成8年)から1997年(平成9年)に刊行された佐藤自身は、日記刊行を持ちかけられると「僕は120歳まで生きるから」と、はぐらかしていたが、佐藤家と交渉し没後約20年を経て実現した。 |
略年譜
| 1901年(明治34年)3月27日-山口県熊毛郡田布施村田縫(現・田布施町)に生まれる。 |
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1949年
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10月第2次吉田内閣で官房長官に就任(~) |
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1952年
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12月第3次吉田内閣第3次改造内閣では留任。(... |
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投票数
0
| ふりがな |
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| 性別 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 |
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佐藤栄作さんについてのひとこと紹介
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