| 清水商時代に背番号10をつけて多くの全国大会で優勝を経験、高校卒業の1995年に清水エスパルスに入団。 |
| 地元育ちの生え抜きスター候補との期待を背負っての入団であった。 |
| しかしなかなかポジションを勝ち獲れず、実戦機会を増やす為にブラジルの名門グレミオに長期サッカー留学に行かされる等、下積み時代が続いた。 |
| この状況を打破すべく1998年に自ら志願して当時ジャパンフットボールリーグのモンテディオ山形にレンタル移籍。 |
| 石崎信弘監督の薫陶を受けて成長し、ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となった。 |
| 同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞。 |
| 1999年、本籍は清水に残したまま、当時J2のFC東京にレンタル移籍。 |
| それまでトップ下が定位置であったが、大熊清監督により右サイドアタッカーのポジションを与えられ、クロサーとしての能力が開花。 |
| 開幕からレギュラーとして攻撃を引っ張り、J1昇格に大きく貢献した。 |
| 翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、FC東京フロント、サポーターの熱心な引き留めもありFC東京へと完全移籍した。 |
| この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。 |
| 翌2001年にチームに加入したトップ下・ケリーとのコンビネーションプレーによって一層佐藤の能力も引き出され、得点に直結するクロスを武器とする右サイドのスペシャリストとして、チームのJ1定着、中堅チームとしてのポジションを築く事に貢献。 |
| フィリップ・トルシエ監督により日本代表候補の合宿にも招集された。 |
| しかし2002年に就任した原博実監督は、佐藤がケガで離脱した際に横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。 |
| 石川の活躍により、2002年シーズン後半は怪我から復帰したものの右サイドのポジションを奪われ出場機会が激減した。 |
| 2003年、出場機会を得るために横浜F・マリノスにレンタル移籍。 |
| 岡田武史監督の下、右サイドのポジションをつかみ、J1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。 |
| また、シーズン途中には、石川直宏と入れ替わる形で完全移籍となった。 |
| 2004年も再び横浜FMで活躍したが、シーズン後半になって同じ右サイドの田中隼磨が台頭し控えに回ることも増え、2005年にはプロ選手としての起点である清水に移籍することとなった。 |
| しかし移籍直後に怪我を負って出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いていた。 |
| 再び出場機会を求めていたところ、恩師石崎監督から誘われ、2006年6月にJ2柏レイソルへレンタル移籍、自身2度目となるJ1昇格を経験する事となり、12月には柏へ完全移籍することが発表された。 |
| 石崎監督は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏へ移籍後はトップ下およびボランチで起用された。 |
| 2007年シーズンをもって契約満了となり退団。 |
| 2008年1月7日、ベガルタ仙台への移籍が決定し、同年は仙台でプレーするが、12月1日にクラブから契約非更新が発表され、1年で退団。 |
| 12月にJリーグ合同トライアウトに参加した。 |
| ベガルタを去る際に残した言葉は次のようなものだった。 |
| 「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。 |
| 今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。 |
| この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。 |
| 最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。 |
| 2009年3月1日、この年からJリーグ準加盟クラブとして承認を受けた日本フットボールリーグのV・ファーレン長崎に加入。 |
| シーズン中盤にはキャプテンマークを付ける等、活躍。 |
| 2011年にB級コーチライセンスを取得している{{PDFLink| |