| 作田家は江戸時代には名字帯刀を許され、九十九里の作田村(今の九十九里町作田)で代々庄屋・網元を営んでいた。 |
| 両親が共に医者の家庭に、3兄弟の末弟として生まれる。 |
| 長兄、次兄共に医者で、巷間作田三兄弟と呼ばれたりした。 |
| 幼稚園と小学校は兄二人と同様に千葉県市川市の日出学園で学んだ。 |
| まだ幼児・子供を対象とした犯罪については比較的のんきな考え方の時代であり、幼稚園と小学校へは自宅のあった中山から菅野まで一人で電車に乗って通った。 |
| ただ、片道で30分はかかるために遅刻の常習者で、これは小学校卒業まで続いた。 |
| 小さいころから本が好きで、小学校の図書室にあった本はほとんど読んでしまったというエピソードが残っている。 |
| 本であればいくら買ってもよいという家庭であったので、学校の帰りに清華堂という本屋(今は公園になっている)へ寄って何冊も本をかかえて帰宅する日々であった。 |
| 小学校高学年になると中学受験に熱中して、毎晩深夜まで勉強していた。 |
| 幸いにも、こうした勉強への片寄った集中は中学時代のクラブ活動で修正されることとなった。 |
| 中学は慶応中等部、高校は慶応高校へと進学する。 |
| 慶応中等部では柔道部のキャプテンとして活躍し、その当時、少なくとも校内では無敵で、学業にも秀でていた。 |
| 慶応中等部の柔道部OBで、慶応大学現役柔道部員である先輩たちの猛稽古にも歯を食いしばって耐え、その猛練習の成果が実を結び、東京都大会で準優勝することとなった。 |
| 慶応の柔道部出身者で作る「一本会(ひともとかい)」では副会長を務めた。 |
| ちなみに段位は2段である。 |
| 慶応高校では生徒会会長を務めた。 |
| 両親が共に医者の家に生まれ、兄弟も皆医者になるのが当たり前の環境で育ったので医学部を目指すことになったのだが、もともと本人は歴史や文学に魅力を感じていた。 |
| また、担任の先生も、両親に対して文学部に進ませて好きな歴史を勉強させたらどうかなどと説得したが、そのことを聞いた母親は猛烈に反対し、ついに本人も歴史学者の道を諦めざるを得なかった。 |
| ただ、当時の慶応高校には生徒会の役員をやると受験勉強が疎かになり、医学部の受験に失敗するというジンクスがあり、両親や兄から受験に専念するよう再三説得されたが、高校3年まで生徒会の役員を辞めることはなかった。 |
| その結果、医学部受験に失敗し、3浪の末、聖マリアンナ医科大学に2回生として入学した。 |
| 3人兄弟の末弟のため、自立・独立の志が強く、また進取の気性もあった。 |
| 学生時代にも兄達はストライキなどには最初から反対で、デモや集会への参加はありえなかったが、本人はまったく逆で、高校時代から大学2年生位までは熱心に学生運動に参加していた。 |
| 大学卒業後は東京大学精神医学教室で研修を受け、その後、イギリスに留学し、引き続きロンドン大学精神医学研究所とモズレー病院で2年間の卒後精神医学研修を受けた。 |
| 1982年夏に2年間の英国留学から帰国したが、2年前まで研修医として在籍していた東京大学精神医学教室には、毎年新しい研修生が入ってくるので、教室は常に飽和状態であり、本人は精神医学教室には再び戻れないことは分かっていたが、日本に帰るまでにその後の予定は全く立てていなかった。 |
| 英国からの帰国後、東大精神科の医局長の紹介で一般病院の精神科に勤務する話もあったが、かねてより関心の深かった犯罪精神医学の道を究めようと思い、就職先と研究先を探し出した。 |
| 東大在籍中は早くから、当時東京医科歯科大学難治疾患研究所助教授の福島章に師事するようになり、福島の鑑定助手を務めたり、やはり福島の紹介で地方検察庁の簡易精神鑑定を引き受けたりして犯罪学の勉強をしていた。 |
| ロンドン大学へ留学中の2年間の研究生活でも半年間犯罪学の勉強をした。 |
| そのような経緯から、帰国後は東京医科歯科大学難治疾患研究所犯罪精神医学部門に専攻生(大学院生)として在籍し、犯罪精神医学の研究を行い、医師としての仕事は中田修教授の紹介で八王子医療刑務所に勤務し、同時にここを研究のフィールド(場)とし利用することになった。 |
| その後、勤務先は市原学園(少年院)に異動したが、引き続き臨床の勉強をしながら犯罪精神医学の研究を進めていった。 |
| 八王子医療刑務所には1982年から1985年まで法務技官として勤務していたが、在職中は刑務官など、職員や受刑者と一緒にクラブ活動で「歌唱クラブ」に参加して、発表会で合唱したこともある。 |
| また、八王子医療刑務所では刑務官と柔道をやったり、酒を飲み、カラオケを一緒にやったりするなど、気さくな一面も持ち合わせていた。 |
| 少年院の市原学園では、教官達と非行の問題について、時間が経つのも忘れるほど熱い議論をたたかわせたりするなど、温和な外見からは想像することが出来ないような熱血漢であった。 |
| 市原学園(少年院)の法務技官を退官後、クリニックを開業することになる。 |
| 最初はJR中央線西荻窪駅前に西荻聖和クリニックを開設したが、1987年にはクリニックを譲渡し、埼玉県所沢市に北所沢病院を開設した。 |
| 北所沢病院の院長をしている時に小唄が個人的な趣味として加わり、その後名取にまでなった。 |
| 母親は子供の頃に長唄を習っていたようであるが、本人は学生時代の頃から小唄を始めるようになった。 |
| 慶応中等部の頃から毎月のように歌舞伎見物をするようになっていたので、母親が小唄の稽古をはじめたのを見ているうちに自分もやってみたいと思ったようであるが、母親からは反対された。 |
| 小唄の内容にはかなり色っぽいものが多いので、医学生がやるべきものではないと考えていたようである。 |
| 正式に家元の寿本会に入門したのは、芸術家としての家元のすばらしさに魅力を感じたからであったが、家元のような人を必要としていたということもあったと本人は述懐している。 |
| 病院の院長ともなると、周囲に日常的に叱咤激励してくれる人や、弱点・欠点を指摘してくれる人、時には叱ってくれる人があまりいないのが常である。 |
| たとえ分野が違っても、自分の上にいて指導してくれる人が欲しかったというのが、家元に入門する時のおそらくは本当の動機だったようである。 |
| 事業については、北所沢病院開設後も医療・介護施設を拡大、拡充していき、順調に発展することとなる。 |
| 学問・研究、更にはメディアの仕事との関係について述べると、イギリスで出版されている「週間マーダー・ケースブック」日本語版を約2年間監修することとなったが、この仕事により英米を中心とする有名な殺人事件、特に猟奇的と言われる大量殺人(犯罪学上、一ヶ所で2人以上の殺人事件が起きた場合を言う)あるいは連続殺人(犯罪学上、2ヶ所以上で複数の殺人事件が行われた場合を言う)についての情報を得られたことがきっかけとなり、一時期病院運営に軸足を置き、研究とは距離を置いてきた日常から、原点に帰って、もう一度犯罪精神医学という学問を探求しようとする転機となった。 |
| また、「週間マーダー・ケースブック」日本語版の監修を契機として、奈良県で発生した殺人事件についてテレビ朝日のインタビューを受けることになった。 |
| その後、1997年に神戸で発生した、いわゆる「酒鬼薔薇事件」という連続児童殺傷事件の猟奇的事件の取材により一気に犯罪心理学者として作田の名が知られることとなった。 |