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つながりの強いひと
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田部輝男
広島県広島市出身の野球選手。野球指導者。ポジションは主に一塁手。田部武雄の従兄弟。 |
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濃人渉
昭和初期から後期(1930年代後半~1970年代前半)のプロ野球選手、内野手(主に遊撃手)。名古屋金鯱軍契約第1号選手。プロ野球監督。(1961年5月4日~1962年... |
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門前眞佐人
広島県三次市出身のプロ野球選手・プロ野球監督・野球解説者。(旧登録名は、門前真佐人)。大阪タイガース契約第1号選手。 |
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北井正雄
草創期の元プロ野球野球選手。阪急の初代エース。投手。島根県出身。 |
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岩本義行
広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる。 |
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岡田宗芳
日本プロ野球黎明期の選手、大阪タイガース創立期の遊撃手。戦火に散華した幻の名選手の一人。 |
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レス・ポール
アメリカのギタリストでかつ発明家。レス・ポールはエレクトリックギター(ソリッド(ボディー)ギター)(ギブソン・レスポール)の生みの親である。 |
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陸定一
陸定一(りくていいつ)は中華人民共和国の政治家。南洋大学在学中の1925年に中国共産党に入党、卒業後は中国共産主義青年団や宣伝工作を務めた。アメリカと... |
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山下実
プロ野球選手。抜群の打撃力で鳴らし、高校野球、東京六大学野球、草創期のプロ野球で活躍した。 |
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名古屋軍
桝 嘉一(名古屋軍) プロ野球に在籍していたOBや在籍中の現役選手などの珍しい苗字(名字)や読みにくい苗字などの選手を紹介するサイトです。 桝 嘉一(ます か... |
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エリック・ホブズボーム
イギリスの歴史家。元イギリス共産党員。ポーランド系ユダヤ人を父に、エジプト・アレキサンドリアに生まれる。オーストリアおよびドイツで幼年期を過ごし、1... |
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西村正夫
香川県高松市出身のプロ野球選手・監督。ポジションは外野手。日本球界で初めて「バント名人」と呼ばれた選手である。 |
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宮武三郎
昭和・戦前期のプロ野球選手。学生時代から投打ともに抜群の実力を兼ね備え、1936年に結成された阪急軍の初代主将として、草創期の日本プロ野球の人気を支えた。 |
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谷内六郎
谷内六郎(たにうちろくろう、1921年12月2日-1981年1月23日)は日本の画家。 |
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黒田健吾
岡山県出身のプロ野球選手。ポジションは三塁手。 |
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高橋博士
宮崎県出身の元プロ野球選手で、主な守備位置は捕手・内野手だった。1974年9月29日の南海戦(後楽園)で1試合で全守備位置を守ったことがある。 |
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イヴォンヌ・ルフェビュール
1904生まれを初めいくつか異説がある。明晰なタッチで感興豊かな表現を聴かせる、20世紀を代表するフランスの奏者のひとり。しかし、生涯の多くを教育活動に... |
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藤村富美男
広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。日本プロ野球を代表する伝説の強打者であり、大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦... |
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平桝敏男
プロ野球黎明期の選手、大阪タイガース(阪神タイガース)創立時の1番打者、外野手。広島県広島市打越町(現・西区)出身。 |
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プロフィール
- 倉本信護とは
- 来歴・人物
- 背番号
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
倉本信護(くらもとのぶもり、1913年6月9日-1983年1月23日)は、広島県出身の日本プロ野球草創期の選手(内野手、捕手)。
来歴・人物
| 5年制の旧制広陵中学では、田部輝男と年は違うが同学、岩本義行の3学年、濃人渉の2学年下、門前眞佐人、岡田宗芳の1学年上となる。 |
| 好打者として知られ、2年生時のの第17回全国中等学校優勝野球大会に岩本らと出場したと記録に残るが試合出場はない。 |
| 1932年には既に18歳になっており、4年生以降は野球部に所属していないので、3年で卒業し呉市の呉海軍工廠に入社したものと思われる。 |
| その後召集され兵役明けの22歳の時()、プロ野球リーグの創設で結成された大阪阪急野球協会(阪急軍)に誘われ入団。 |
| 阪急軍初代背番号17。 |
| 当時は職業野球と呼ばれ世間から揶揄されたとされるが、「野球でメシが食えるなら」と何の抵抗もなく入団した。 |
| プロの第一印象は「捕手の送球が二塁までよう届かんのじゃ(二塁までちゃんと届かない)。 |
| これならやれるわい」だった。 |
| プロ1期生として阪急の設立に参加した西村正夫、宮武三郎、山下実らと主力選手として活躍。 |
| 日本初のプロ野球公式戦となった1936年4月の「第1回日本職業野球リーグ戦」で阪急の公式戦第1戦(対東京セネタース戦)でも7番・捕手として先発出場。 |
| 夭折した阪急創成期のエース・北井正雄の最初と最後の勝利もバッテリーを組んだ。 |
| 個人タイトルが初めて設立された1936年秋のシーズンは、飛ばないボールの時代で本塁打2本を打った山下、藤村富美男らが本塁打王になっているが、倉本も1本打っている。 |
| この本塁打は現在はない洲崎球場の第1号本塁打ともいわれるが真偽は不明。 |
| 翌春には同一シーズンに投手以外の全ポジションを守った(これを達成した選手には他に高橋博士がいるが、高橋は記録を狙ってのもの)とされるがこちらも詳細は不明。 |
| 同年秋季、名古屋軍に移籍。 |
| 主に三塁を守り主軸打者として活躍。 |
| 大沢清(大沢啓二の兄)の後の5番、6番を打った。 |
| 翌、打率.230、打点23、本塁打3本。 |
| そのうち1本が同年10月19日、後楽園球場での対東京セネタース戦、2対2の延長10回裏、浅岡三郎投手から放った史上初のサヨナラ満塁本塁打である。 |
| に名古屋金鯱軍に移籍するが、シーズン途中に2度目の招集を受けて退団し、満州に渡る。 |
| 翌、前橋市・山藤商店の選手兼任監督として第19回都市対抗野球大会に出場。 |
| 初戦で深見安博らを擁し優勝した西日本鉄道に延長戦で惨敗。 |
| 都市対抗野球出場の命を請けての加入と思われ、翌、今度は鹿沼市・古沢建設に道仏訓、田部輝男と共に移籍し、第20回都市対抗野球大会に出場。 |
| 6番・一塁手として出場するがまたも初戦敗退。 |
| その後、川崎市・鈴捨工業などノンプロを転々とし、45歳になる頃まで職を変えながら現役選手を続けた。 |
| 口が重く社交下手、人を教えるのが苦手だったといわれ、野球を辞めた後は運送業に携わっていたが、1983年1月、材木の積荷卸し作業中、事故死した。 |
| 仏前には日に5杯は愛飲したというコーヒーが今も供えられているという。 |
背番号
| 17(1936年-1937年春季、1947年)。 |
| 3(1937年秋季)。 |
| 12(1938年)。 |
| 10(1940年)。 |
参考文献
| 「焦土の野球連盟」-阿部牧郎著、サンケイ出版(1987年2月)。 |
| 「都市対抗野球大会60年史」-日本野球連盟、毎日新聞社(1990年1月)。 |
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1932年
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既に18歳になっており、4年生以降は野球部に... |
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1936年
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プロ1期生として阪急の設立に参加した西村正... |
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投票数
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