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後醍醐天皇
第96代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日)-延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。諱は尊治(たかはる)。 |
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鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍... |
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後二条天皇
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日正
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護良親王
鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。また公家の藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良... |
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プロフィール
- 光厳天皇とは
- 系譜
- 略歴
- 在位中の元号
- 陵墓・霊廟
- 登場作品
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
光厳天皇(こうごんてんのう正和2年7月9日(1313年8月1日)-正平19年/貞治3年7月7日(1364年8月5日))は、 南北朝時代の北朝初代天皇とされている(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日)-元弘3年/正慶2年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。
系譜
| 持明院統の後伏見天皇の第三皇子。 |
| 母は、左大臣西園寺公衡(きんひら)の娘、女御寧子(広義門院)。 |
| 叔父にあたる花園天皇の猶子となった。 |
| 妃:懽子内親王(宣政門院)(1315-1362)-後醍醐天皇皇女。 |
| 第二皇女(1335-?)。 |
| 第三皇女:光子内親王(1337-?)。 |
| 妃:寿子内親王(徽安門院)(1318-1358)-花園天皇皇女。 |
| 典侍:藤原(三条)秀子(陽禄門院)(1311-1352)-正親町三条公秀女。 |
| 第一皇女(1333-?)。 |
| 第一皇子:興仁親王(崇光天皇)(1334-1398)。 |
| 第二皇子:弥仁親王(後光厳天皇)(1338-1374)。 |
| 後宮:藤原氏(今御方)-西園寺実衡女。 |
| 後宮:藤原氏(対御方)-西園寺実明女。 |
| 第四皇子:尊朝入道親王(1344-1378)-仁和寺。 |
| 後宮:藤原氏(一条局)-正親町公蔭女。 |
| 皇子:義仁親王(正親町宮)(?-1415)。 |
| 後宮:藤原氏-大炊御門冬氏女。 |
| 皇女(1331-1402)。 |
| 皇女:華林恵厳(?-1386)-宝鏡寺開山。 |
略歴
| 嘉暦元年(1326年)7月24日、大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子になる。 |
| 当時、鎌倉幕府の裁定によって、持明院統と大覚寺統は10年ごとに天皇を交代させる決まりになっていたが、大覚寺統の後二条天皇が在位7年での急死後に例外的に後二条(大覚寺統)→花園(持明院統)→後醍醐(大覚寺統)→邦良親王(大覚寺統・後二条嫡男)→量仁親王(持明院統)という例外的な皇位継承順位が定められていた。 |
| ところがこの年の3月に邦良親王が病死したため、急遽量仁親王の繰り上げ立太子が実現したのである。 |
| だが、当時皇位にあった後醍醐天皇は幕府の裁定そのものの無効を主張して譲位には応じなかった。 |
| 元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の倒幕のもくろみが発覚し(元弘の乱)、8月に天皇が笠置山へ脱出すると、9月20日に量仁親王が即位し(光厳天皇)、後伏見上皇が院政を行った。 |
| 皇太子には邦良親王の嫡男康仁親王が立てられて、両統迭立原則は維持されることとなった。 |
| 翌年、後醍醐天皇は隠岐に流されるが退位を拒否し、光厳天皇と並立したため、広義にはこの時代より南北朝時代と呼ぶ。 |
| 元弘3年/正慶2年(1333年)、足利尊氏の軍が京都の六波羅探題を襲撃し、探題北条仲時・北条時益とともに東国に逃れようとしたが、近江番場宿で捕らえられ、5月25日に廃位されている。 |
| だが、天皇自身は退位を拒否していた。 |
| 後醍醐側の光厳天皇への処遇は「朕の皇太子の地位を退き、天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇とする」とされ、即位の事実を否定されてしまった(したがって論理的には小一条院同様、皇太子をやめて上皇の尊号を受けたという例になる)。 |
| しかし、帰京した後醍醐天皇による建武の新政が失敗し、建武2年(1335年)足利尊氏が離反すると、上皇は尊氏に新田義貞追討の院宣を下す。 |
| 翌3年(1336年)尊氏は義貞に敗れて九州に逃れたが、やがて勢力を回復して上洛し、8月15日に光厳上皇は弟の豊仁親王を即位させ、院政を敷いた。 |
| ここに大覚寺統の後醍醐天皇(南朝)と、持明院統の光明天皇(北朝)とが並立し、以降60余年続く南北朝時代の端緒となった。 |
| 光厳上皇は光明天皇・崇光天皇の二代に渡って院政を行い、治天の君として積極的に政務を展開した。 |
| だが、足利氏の内紛である観応の擾乱のおり、南朝方が勢力を盛り返し、正平6年/観応2年(1351年)11月に南朝の後村上天皇により崇光天皇は廃され、翌年(1352年)2月、南朝軍の京都奪回に伴い、光明・崇光両上皇とともに拉致され、京都を追われて撤退する南朝軍によって山城男山(京都府八幡市)、さらに南朝の当時の本拠であった大和賀名生(奈良県五條市)に連れ去られた。 |
| 光厳上皇はかねてより夢窓疎石に帰依していたが、この年の8月8日に失意のうちに賀名生で出家し、法名を勝光智と称した(後に光智に改める)。 |
| 南朝の軟禁下にあること5年、正平12年/延文2年(1357年)2月に河内金剛寺より還京し、深草金剛寿院に入り、ついで嵯峨小倉に隠棲。 |
| 世俗を断って禅宗に深く帰依し、春屋妙葩らに師事した。 |
| 正平17年/康安2年(1362年)9月、法隆寺に参詣した。 |
| これに関連して、法皇が大和・紀伊へ行脚に出て、吉野で後村上天皇との再会を果たしたという話が『太平記』・『大乗院日記目録』この話の年次について、『太平記』に具体的な記述はないが、『大乗院日記目録』には康安2年(1362年)としている。 |
| に見えている。 |
| かつての敵味方の交歓を描くこの話は、軍記物語『太平記』を締め括る名場面として知られるが、そのまま史実とみることは出来ない。 |
| 晩年は丹波山国荘の常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧としての勤めに精進し、正平19年/貞治3年(1364年)7月7日、この地で崩御した。 |
| 歌道にも優れ、後期京極派の重要な一員である。 |
| 花園院の指導のもと『風雅和歌集』を親撰し、『光厳院御集』も伝存する。 |
在位中の元号
| 元弘(1331年9月20日)-1332年4月28日。 |
| 正慶1332年4月28日-(1333年5月25日)。 |
陵墓・霊廟
| 京都府京都市右京区京北井戸町の山国陵(やまくにのみささぎ)。 |
| 常照皇寺内に所在。 |
| 崩御翌日に常照皇寺の後山で火葬、そのまま陵とした。 |
| 遺勅により、陵上に松柏が植えられたという。 |
| 常照寺後山陵とも称されたが、幕末修陵の際に現陵号に改定した。 |
| なお、分骨所が大阪府河内長野市天野町の金剛寺、髪塔が京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町の金剛院にある。 |
登場作品
| 森真沙子『廃帝』(角川春樹事務所、2004年)ISBN4-7584-1029-1。 |
| 朝松健「邪曲回廊」『オバケヤシキ』(光文社異形コレクション第33巻、2005年)ISBN4-334-73931-8より。 |
| 既に故人ではあるが、彼の遺品であった拄杖が恐ろしい空間を生み出し、小坊主時代の一休が嵌ってしまう。 |
参考文献
| 赤松俊秀他編『光嚴天皇遺芳』(常照皇寺、1964年)。 |
| 中村直勝「光厳天皇」『歴代天皇紀(中村直勝著作集第6巻)』(淡交社、1978年)ISBN978-4-4730-0583-0。 |
| 飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇光厳院』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2002年)ISBN4-642-05547-9。 |
| 藤井讓治・吉岡眞之監修・解説『光厳天皇実録(天皇皇族実録76)』(ゆまに書房、2009年)ISBN978-4-8433-2010-5。 |
関連項目
| 西福寺-京都市伏見区に所在する浄土宗本派の寺院。 |
| 光厳天皇の念仏堂が興りとされ、元は如意山光厳院と号した。 |
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1326年
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大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子になる |
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1331年
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後醍醐天皇の倒幕のもくろみが発覚し(元弘の... |
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