| 父は杞渓兪氏の兪致衡。 |
| 1914年、斉洞公立普通学校に入学、1919年、京城高等普通学校に入学し、教育を受ける。 |
| 京城高等普通学校を卒業後、1924年、京城帝国大学予科に入学する。 |
| この年、朝鮮人学生団体「文友会」を組織し、機関紙『文友』の発刊に携わった。 |
| また、李在鶴らと詩集『十字架』を発刊する。 |
| 1926年には同大学法文学部法学科に進学し、法律を学ぶ。 |
| この頃、李光洙と出会う。 |
| また、学友達と経済研究会を組織、始めは経済書の講読に過ぎなかったが、やがて李康国、朴文圭らが加入することによってプロレタリア思想を帯びるようになる。 |
| 数年後には朝鮮共産党再建運動に参加した人物まで加わり、経済研究会は大学当局によって解散させられた。 |
| その後、同大学の助手として1933年まで勤務した。 |
| 学生時代、1927年に『朝鮮之光』に短篇「」を発表、文壇に登場する。 |
| その後、プロレタリア文学に興味を傾け『(家庭教師)』、などの作品を発表、一時、同伴者作家として注目を浴びた。 |
| しかし、プロレタリア文学作家達が皆KAPFの組織下にあったにも拘らず、兪はプロレタリア志向の作品を書きながらもKAPFの組織に参加してはいなかった。 |
| その理由について、兪は文学と政治を切り離して考える立場であったからだと言われている。 |
| KAPFに参与していなかったために、プロレタリア作家でありながら、1931年と1934年のKAPF一斉検挙の際、兪は検挙を免れた。 |
| しかし、日本のプロレタリア作家に対する強い弾圧により、兪も作品の志向性を転換するようになる。 |
| この時期、李箕永、金南天、韓雪野など多くのプロレタリア作家が書くべき主題を見失った中で、兪もまたその主題を見出せないでいた。 |
| しかし、李泰俊、鄭芝溶、李孝石などと共に純粋文学を模索し、『(金講師とT教授)』(日本語訳は岩波文庫『朝鮮短編小説選』にある)などを発表している。 |
| 1939年、朝鮮文人協会が組織され日本の太平洋戦争法科科長となる。 |
| そして、1943年には、毎日申報に「(兵役は大きな力だ)」と、朝鮮人学徒志願兵を奨励し、1944年には『新時代』に「我等必ず勝つ(日本語)」を発表、日本の組織の元で活動した。 |
| 兪は、日帝に屈した文士としてその評価が低められていることは確かであるが、兪が残した文学作品の価値は正当に評価されるよう努力がなされ、日帝末期に飲み込まれた文士達の歴史的現実として朝鮮文学史に刻まれている。 |
| 戦後は大韓民国憲法を起草する(この際、兪は議院内閣制に近い草案を起草していたが、李承晩によって大統領制に改変される)など、本業であった法学者として活躍する。 |
| また、朴正煕大統領の対抗馬に擬せられ、民衆党の大統領候補に指名されたが、尹潽善が率いる新韓党との候補一本化を理由に辞退した。 |
| その後1967年2月に、民衆党と新韓党が統合して発足した新民党の代表委員(党首)に就任、1968年に党の機構改革で党総裁になった。 |
| 1969年に与党共和党が推し進めた3選改憲に反対する闘争を新民党を自己解体共和党が提出した改憲案に新民党議員3名が賛成の意を表明し、提案者として署名した事に対して、彼らの議員職を剥奪するために行なわれた。 |
| 当時の憲法で「国会議員は任期中党籍を離脱あるいは変更した場合、又は所属政党が解散したときは、その資格を喪失する。 |
| ただし、合党あるいは除名により所属を変更した場合にはその限りではない」とする規定(憲法第38条)を利用して、兪鎮午自身を含む、3議員を除いた44名全員を新民党から「除名」して、党を解散、新民党に残ることになった3名の議員は党解散によって、自動的に議員職を失うことになった。 |
| その後改めて「新党」として新民党を再結成した。 |
| なお党が解散されていた期間は院内交渉団体として「旧新民会」を組織していた。 |
| するという手段を使ってまで強力に推し進めたことから71年の第7代大統領選挙における新民党の大統領候補の最有力者とされた。 |
| しかし、疲労が原因で1969年10月に水原のヴィンセント病院に入院し、翌年一月に総裁職を辞任することを表明した。 |