13489
13643
155633
%E5%85%AC%E5%AD%AB%E3%82%B5%E3%83%B3
%E5%85%AC%E5%AD%AB%E3%82%B5%E3%83%B3
%E5%85%AC%E5%AD%AB%E3%82%B5%E3%83%B3
%E5%85%AC%E5%AD%AB%E3%82%B5%E3%83%B3
%E5%85%AC%E5%AD%AB%E3%82%B5%E3%83%B3
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 公孫サンの画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
袁紹
対立
中国の後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)。豫州汝南郡汝陽県の出身。高祖父は袁安。曽祖父は袁京。祖父は袁湯。父は袁成又は袁逢。叔父に袁隗。... |
|
|
張飛
中国後漢末期から三国時代の武将。字は益徳。涿郡(現在の河北省涿県)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹・敬哀皇后... |
|
|
孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。 |
|
|
BB戦士
週末に倉庫整理した関係で 倉庫の奥のほうから見つけてきました発掘商品をご紹介! 今回ご紹介させていただきます商品は、 ”BB戦士 SD戦国伝 天下統一編 初代... |
|
|
馬騰
後漢末期の軍人。字は寿成。祖先は後漢初期の名将馬援、父は馬平。蜀(蜀漢)の将軍馬超の父に当たる。 |
|
|
黄忠
中国後漢末期から三国時代の将軍。字は漢升。諡は剛侯。子に黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。三軍筆頭の勇者と評された勇将である。 |
|
|
徐庶
中国後漢末期から、三国時代の魏にかけての武将・政治家。字は元直(げんちょく)。元の名は福であり、単家(たんか(ぜんかと記載する書もある)、権勢のな... |
|
|
劉虞
後漢の宗室(広義の皇族)。字は伯安。徐州東海郡<spanlang="zh">郯県の人。子は劉和。 |
|
|
諸葛亮
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建... |
|
|
袁術
対立
後漢末期の武将・政治家。後漢の司空である袁逢の子。太僕である袁基の同母弟。袁紹の従弟又は異母弟。後漢の名門である汝南袁氏出身。当初は官界にあったが... |
|
|
公孫越
中国の後漢時代末期の武将。幽州遼西郡令支県の人。公孫瓚の従弟。家系は遼西公孫氏。同じく公孫瓚の従弟とされている公孫範との関係は不明で、兄弟とも従兄... |
|
|
公孫度
中国後漢末期の群雄。家系は公孫氏。公孫延の子、公孫康・公孫恭の父で、公孫淵、公孫晃の祖父に当たる人物である。字は升済。遼東襄平の人。初名は豹。父の... |
|
|
献帝
後漢の最後の皇帝。諱は劉協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は王美人。 |
|
|
孫堅
対立
中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。 |
|
|
盧植
後漢末の政治家・将軍・学者。字は子幹。子は盧毓他少なくとも3人。本籍は幽州&28095;(たく)郡&28095;県(現在の河北省保定市&28095;州)。『後漢書』に伝... |
|
|
顔良
中国の後漢時代末期の武将。顔氏家訓によると顔之推は顔良を同族と言っているので、それを信じれば顔良は徐州琅邪国臨沂県の人ということになる。 |
|
|
張コウ
中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。字は儁乂(しゅんがい)。『三国志』魏志に伝がある。冀州河間郡<spanlang="zh">&x911A;(ばく)の人。子は張... |
|
|
関興
三国時代の官僚・軍人。蜀(蜀漢)に仕えた。字は安国、関羽の子。兄弟に関平がいる。子は関統・関彝。正史では関羽伝にてわずかに触れられているのみである... |
|
|
劉表
後漢末期の政治家・儒学者。字は景升(けいしょう)。山陽郡高平県の人。前漢の景帝の第4子である魯恭王・劉余の子孫。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠し... |
|
|
プロフィール
- 公孫サンとは
- 北方の勇将
- 劉虞との対立
- 袁紹との戦い
- 劉虞の殺害
- 易京の戦い
公孫&x74C9;(こうそんさん、ピンイン;,?-建安4年(199年))は、後漢末期の武将。字は伯珪。幽州遼西郡令支県(現遼寧省朝陽市令支県)の出身。従弟に 公孫範・ 公孫越、子に 公孫続らがいる。『三国志』魏志、及び『後漢書』に伝がある。後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し、後に群雄として割拠する。河北の支配権をめぐって 袁紹と争うが、大司馬 劉虞を殺害するなどしたため人心を失い、最後は 袁紹に敗れて自害した。
北方の勇将
| 先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。 |
| 若い頃に、遼西郡の門下書佐に任命された。 |
| 聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。 |
| 弁舌さわやかで頭の回転も速く、物事の説明も巧みであったという(『典略』)。 |
| 太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。 |
| そして侯氏の援助で涿郡の盧植の下で経書・兵学を学んだ。 |
| このときの学友に劉備がいる(蜀志「先主伝」)。 |
| 太守の劉氏が法律に触れて廷吏に連行されたとき、公孫瓉は法に触れる危険を犯してこれに随行し、雑役を代わって務めた。 |
| 劉氏は日南郡に流罪となりそうになると、これに随行するため北虻山の上で先祖を祭り、米と肉を捧げて涙を流し祈った。 |
| 人々はこの姿を見て涙を流した。 |
| 結局、劉氏は赦免を受けて帰還することができた。 |
| 公孫瓉は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。 |
| 数十騎の小勢を率いて城外に出て辺境の砦を巡察したとき、数百騎を率いた鮮卑族の一団を見かけた。 |
| これを自ら突撃して半数の手勢を失うも撃退した。 |
| 鮮卑はこの後、国境を侵すことは稀になったという。 |
| 公孫瓉は涿郡の令となった。 |
| 光和年間に涼州で反乱が起きた(涼州の乱)。 |
| 中平3年(186年)、張温の討伐軍への援軍として朝廷は幽州の突騎3000人の出動を命じた。 |
| このとき公孫瓉は都督行事の割符を与えられ、突騎兵の指揮を任された。 |
| 薊まで来たところで、張温の対応に不満の張純が将軍を自称し、張挙・烏桓族の丘力居を誘い反乱を起こし、右北平と遼西属国を荒らしまわった(張純の乱)。 |
| 公孫瓉は配下を率いて張純らを攻撃し撃破したため、騎都尉となった。 |
| 更に反乱を繰り返す張純に公孫瓉は攻撃を仕掛け、遼東付近でこれを攻め破り、誘拐・捕虜とされていた人民らを素早く救出し、さらに長城を越えて反乱軍を追撃する。 |
| だが、深入りしすぎたために今度は逆に反乱軍の包囲を受け、数百日の激闘の末、食糧が尽きて両軍ともに撤退する。 |
| その後、烏桓族の貪至王が騎馬部族を率いて公孫瓉に降伏したため自軍へ編入。 |
| その功で中郎将・都亭侯となった。 |
| 公孫瓉は遼東属国に駐屯し、異民族と5・6年かけて戦闘を繰り広げた。 |
劉虞との対立
| 烏桓族の丘力居はこの間、青州・徐州・幽州・冀州を荒らしまわったが、公孫瓉は対応ができなかった。 |
| 朝廷は幽州刺史の経験のある宗正の東海の劉虞を幽州牧に任命してこれに当たらせた。 |
| 劉虞は丘力居を説得し、張純の首を差し出させて帰順させようとし、丘力居もこれを受け入れようとした。 |
| 公孫瓉はこれを阻止するため丘力居の降参の使者を捕らえて殺害したが、次の使者は間道を通って劉虞に降参の意向を伝えたので、劉虞は諸地に駐屯していた軍を引き上げるとともに、公孫瓉のみを留めて歩兵と騎兵1万を率いさせて右北平に駐屯させた。 |
| 張純は妻子を捨てて鮮卑を頼って逃走したが、食客の王政に殺害された。 |
| 劉虞はこの功績で太尉に昇進した。 |
| 後に董卓の推挙によって公孫瓉は奮武将軍・薊侯に封ぜられた。 |
| 異民族に対し恩徳を以た懐柔策を採る劉虞に対し、公孫瓉は「異民族は制御し難いものである故に、彼等が服従しない事を以て討伐すべき。 |
| 若し今彼等に恩徳を与えたら、益々漢室を軽視するに違いない。 |
| 劉虞の政策は一時の功名は立てても、長期的戦略ではない」と考えていた為、劉虞が鮮卑族に対して与えた恩賞を常に略奪していた。 |
| 劉虞は公孫瓉に会見を申込むも、いつも仮病を使って無視されていた(『魏氏春秋』)。 |
| 関東において袁紹・韓馥らが義兵を挙げると、董卓は長安に遷都すると同時に劉虞を中央に呼び寄せようとした。 |
| また、袁紹らも劉虞を擁立し皇帝に祭り上げようとし、それを拒絶されると、尚書の事務を担当させ官爵の任命を行わせようとした。 |
| 献帝は洛陽に帰還するため、劉虞の子の劉和を長安から脱出させて劉虞の軍事協力を仰ごうとした。 |
| 劉和は武関を抜け出したが、南陽で袁術に抑留された。 |
| 袁術が劉虞の軍勢を手に入れるために、劉和に手紙を書かせて援軍を要請させたところ、劉虞は数1000の騎兵を派遣することに決めた。 |
| 公孫瓉は袁術の狙いが分かったためこれに反対したが、劉虞の決心が変わらなかったため、自身も袁術の感心を得るため、従弟の公孫越に数1000の騎兵を率いさせ、劉虞の軍に同行させた。 |
| 公孫瓉はさらに袁術に密使を送って同盟を結び、劉虞の軍の強奪に加担しようとした。 |
| このことがあって、劉虞とは不和となったという。 |
| このころ、公孫瓉は、反董卓の義兵に加わると称して魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』によると、冀州を奪うため袁紹が策謀をめぐらした結果だとする。 |
| 安平に駐屯していた韓馥を攻撃し、これを破った。 |
| 進退に窮した韓馥は袁紹を頼ったという(魏志「袁紹伝」)。 |
| 公孫瓉は冀州の住民が袁紹に靡くことに不安を持っていたが、趙雲が義勇兵を引き連れて自分の元を訪れると喜んで歓待したという(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。 |
袁紹との戦い
| 初平2年(191年)、黄巾賊の残党30万が渤海郡の郡境付近から侵入した。 |
| 公孫瓉は2万の兵を率いてこれを迎撃。 |
| 東光の南において包囲してくる敵軍をことごとく撃破すると、黄巾賊は輜重車を捨てて敗走、清河を渡り逃げようとする黄巾賊に猛烈な追撃をかけ、数万の兵と将を討ち取ると共に大量の捕虜と軍需物資を手に入れた。 |
| 袁術とその部将の孫堅は豫州をめぐり袁紹と対立していた。 |
| あるとき、袁紹の部将の周昂が陽城の孫堅の陣地を奪取した報復として、袁術の元に出向いていた公孫越は袁術の指示で孫堅と共に周昂を攻撃するが勝てず、公孫越は戦死してしまう(陽城の戦い)。 |
| 公孫瓉はこの知らせを聞き激怒し磐河まで出兵したという。 |
| 公孫瓉の勢いに恐れを抱いた袁紹は、その従弟の公孫範に渤海太守の印綬を送り、渤海太守にしたうえで講和を図った。 |
| しかし、公孫範は渤海郡の郡兵を手に入れると、青州や徐州の黄巾賊の勢力を吸収して公孫瓉の軍勢に加わった。 |
| 勢いにのった公孫瓉は上奏して袁紹の非を鳴らすと共に(『典略』)、田楷・厳綱・単経といった自分の息のかかった人物を青州・冀州・兗州の刺史に任命し、郡や県の長官も勝手に任命した魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』によると、公孫瓉は青州の黄巾賊を撃破した後、広宗に駐屯し、郡守や県令を更迭したため、冀州の長吏はこぞって門を自ら開いたという。 |
| 界橋まで進軍した公孫瓉を袁紹は広川に陣を敷いて迎え撃った。 |
| 公孫瓉軍の布陣は、中央に歩兵3万余が方陣を敷き、その左右を騎兵1万余が固めるというものであった。 |
| 袁紹軍の布陣は先陣の麴義が楯を構えた兵士八百人と一千張の強弩隊を率い、その後に袁紹自身が率いる数万の歩兵が続いた。 |
| 羌族の(騎兵)戦術を熟知した麴義の奮闘により、公孫瓉軍は部将の厳綱が捕虜になるなど大敗して渤海に敗走した(界橋の戦い界橋の戦いについては魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』に詳しい。 |
| その後、崔巨業らが率いる数万の袁紹軍によって故安城が包囲されるもののこれを守り切り、撤退する袁紹軍を公孫瓉・田楷ら3万の軍勢が追撃し、巨馬水において大いに打ち破った。 |
| 公孫瓉は勝ちに乗じてまたも南進し、各郡県を猛烈な勢いで攻め落とし進んでくると、袁紹は数万の軍勢を派遣して2年余りの長期戦と化すが、最後は公孫瓉の敗北という形で決着し、公孫瓉は公孫範と共に薊へ逃げ帰った(『後漢書』「公孫瓉伝」)魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』によると、193年に長安から和睦の使者として太僕の趙岐が派遣され、袁紹と公孫瓉は和解している。 |
| 公孫瓉は同時期に袁術の求めに応じて、劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に駐屯させたが、すべて袁紹の命令を受けた曹操に打ち破られたという(「武帝紀」)。 |
| 公孫瓉は劉備を別部司馬に任命して、劉備に趙雲を随行させて青州方面の田楷の援軍に赴かせている(蜀志「先主伝」、蜀志「趙雲伝」)。 |
| 後に劉備は徐州の陶謙の元に援軍に赴いたまま、豫州刺史に推挙されて戻らなかったが、その部下の田豫が帰郷して後に公孫瓉に仕えている(蜀志「先主伝」、魏志「陶謙伝」、魏志「田豫伝」)。 |
| 趙雲も兄の喪に服するために公孫瓉の元を離れている(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。 |
| 薊には州庁があり、劉虞の城の東南に公孫瓉は小さい城を造営し、そこを拠点とした。 |
| 劉虞と公孫瓉との敵意は次第に高まっていったという『魏氏春秋』によると、公孫瓉が袁紹に敗れて弱体化していたため、劉虞はすぐに攻撃を加えようとしたが、東曹掾の魏攸に反対されたため、魏攸が死ぬまでの1年ほど延期になったという。 |
劉虞の殺害
| やがて劉虞は公孫瓉が乱を起こすことを警戒し、異民族らと連携し数万余の大軍を集め公孫瓉を攻撃した。 |
| しかし、劉虞の幕僚である公孫紀が侵攻作戦の詳細を公孫瓉に流すと、公孫瓉は精鋭騎兵数100を選りすぐり、戦闘による被害の拡大の防止に気を取られていた劉虞に対して奇襲をかけて散々に打ち破り、劉虞が居庸に逃れた後も執拗に追撃をかけ、遂に劉虞を捕らえ、薊に連れて帰った(魏志「公孫瓉伝」、『後漢書』「劉虞伝」、「公孫瓉伝」)。 |
| この頃、董卓が死去し、長安の朝廷は劉虞に六州を任せようとし使者の段訓を派遣した。 |
| 公孫瓉もこのとき前将軍・易侯に封じられたが、公孫瓉はさらに段訓を脅迫して劉虞が皇帝を僭称しようとしたと誣告し、劉虞を一族もろとも処刑した『魏氏春秋』によると、劉虞の許で役人となっていた立派な人物を全て殺害したという。 |
| 「公孫瓉は市場で劉虞を晒して(市場に於ける公開処刑は裏切り者や犯罪者に対し為されることである)言った、「お前が本当に天子になるべき人物ならば、天が雨を降らせ助けてくれる筈」と。 |
| 公孫瓉は段訓を代わりの幽州刺史に任命させると、思いのままに振舞った公孫瓉は「昔、天下の事態は指で指し示しながら平定できる(=自分が全知全能の人格者、即ち聖人君子である)と思っていた」と述べている。 |
| 公孫瓉は役人の家の子弟に優秀な人材がいると、決まって故意に困窮に陥れ、凡庸な者を重用した。 |
| 公孫瓉は「役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、自分がそのような官職につくのは(名声や実力から見て)当然だと考え、わしがよくしてやっていることに対して感謝しないだろう」と理由を挙げている。 |
| 特に元・占い師、絹商人、その土地の豪商ら3人と義兄弟の契りを結び(この3人は巨万の富を有した大金持ちであった)、彼等と姻戚関係を結んでいた『英雄記』。 |
| 劉虞の使者として長安に赴いていた田疇は劉虞のために哭礼を行ったため公孫瓉に捕らえられたが、後に釈放されている(魏志「田疇伝」)。 |
| 劉虞の臣下の多くが殺害されたが(『英雄記』)、劉虞の旧臣の漁陽の鮮于輔らは閻柔を烏桓司馬に推して烏桓・鮮卑と手を組み数万の兵力を集め、公孫瓉が任命した漁陽太守の鄒丹を斬るなど公孫瓉への反撃を開始した。 |
| 袁紹は劉虞の子の劉和を擁立し、麴義に命令して鮮于輔らを支援し公孫瓉を攻撃した公孫瓉の将の王門が袁紹に寝返ったが、当時は公孫瓉に仕えていた田豫が撃退している(魏志「田豫伝」)。 |
| 公孫瓉は鮑丘の戦いで敗れると、公孫瓉は易京城に撤退して籠城することを余儀なくされた。 |
易京の戦い
| 1年余りの対峙の末、食糧が尽きて撤退しようとする麴義と劉和の軍に公孫瓉は追撃して大破した。 |
| 袁紹は公孫瓉に降伏を勧告したが、公孫瓉は返事を書かずに軍備を増強し、側近の関靖に対し自分の力を誇示したという『漢晋春秋』『漢晋春秋』に掲載されている袁紹の手紙によると、これ以前に、袁紹に嫌悪された麴義は殺害され、その残党は公孫瓉の援助を要請したが、公孫瓉は見殺しにしたという。 |
| 公孫瓉やその諸将はそれぞれが高い楼閣を築き、そこに居住したが、公孫瓉は側近を遠ざけ、下女や側室に囲まれて暮らし、公文書も下から吊り上げさせたという(『英雄記』)。 |
| あるとき、公孫瓉の別将で敵軍に包囲された者が居たが、公孫瓉は救援軍を送らなかった。 |
| その後、袁紹が大軍を率いて攻めてくると、公孫瓉は最初は自身が突騎兵を率いて出撃し包囲網を突破して城外の張燕・公孫続と合流して袁紹軍を背後を突く計画を練るが、関靖に止められた。 |
| 公孫瓉は結局城内から公孫続に密使を送り、内外から呼応する作戦を立てたが、密使が袁紹の斥候に捕らえられて計画が漏れ、出撃するも伏兵により惨敗を喫した死の直前、薊の城が崩壊する夢を見て、子の公孫続に手紙を送ったところ、密使が捕らえられたという(『献帝春秋』)。 |
| 小説『三国志演義』では、反董卓連合の諸侯の1人として登場し、旧知の劉備をいろいろと援助する恩人として描かれている。 |
| 呂布と一騎打ちに及んで敗れたり、袁紹配下の武将の文醜や麴義に自慢の白馬義従を破られ逃げ回るなど窮地に陥ることが多いが、そのたびに劉備兄弟や趙雲に救われる。 |
| 曹操と劉備が英雄を論じた宴席の最中、河北の偵察に赴いた満寵が公孫瓉の敗死を知らせてきたため、劉備は公孫瓉の仇を討つという名目で、袁紹の弟の袁術を徐州で待ち受けることを願い出、曹操の許可を得て再び群雄として自立することになる。 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
公孫サンさんについてのひとこと紹介
|
|
|
|