■
夏侯惇に見出され配下となり、たびたび戦功を挙げ、司馬となった。
■
酒食を好み、飲み食いの量は人の倍で、御前で食膳を賜るときは左右から酒を注ぎ、給仕を数人に増やしてやっと間に合うほどだった。
■
大きな双戟と長刀などを愛用し、「帳下の壮士に典君あり。
■
一双戟八十斤を提ぐ」とはやされた。
■
濮陽で呂布と曹操が戦ったとき、典韋は数十人の突撃隊を率いて、矢の雨の中で奮戦して呂布軍を防ぎとめた。
■
典韋は都尉となり、数百人の曹操の
親衛隊を率いることとなり、戦闘のたびに先鋒として敵陣を陥れた。
■
これらの功績により校尉となった。
■
張繍征伐に参加し、張繍が降伏したときの酒の席では一尺ほどの大斧を持って張繍たちを睨みつけたため誰も目を上げられなかったという。
■
その後、張繍が謀反を起こしたとき、曹操を逃がすべく部下とともに死にもの狂いで戦った。
■
典韋が守っていた陣門に敵は侵入できなかったが、敵は他の門から陣に突入した。
■
典韋と十数人の部下は多数の敵に囲まれたが、典韋が戟を一振りすると、敵の十数本の矛が砕かれた。
■
多くの箇所に傷を負った典韋は、敵に突進し、数人を殺してから、目を怒らせ口をあけて大声で罵りながら死んだ。
■
曹操は典韋の死を聞くと、涙を流し、息子である曹昂の死以上に悲しみ、遺体を取り戻すために志願者を募った。
■
曹操は告別式で泣き、棺を陳留郡襄邑に送り届けさせた。
■
その後、曹操は通るたびに典韋を弔った。
■
そして子の典満を司馬に取り立てて側に置いた。