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つながりの強いひと
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山本泰
東京都出身のアマチュア野球選手、学生野球指導者、プロ野球スカウト。現在はシアトル・マリナーズスカウト。父は南海ホークス監督の鶴岡一人。 |
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新渡戸稲造
友達 同期
流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。拓殖大学名誉教授。 |
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日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。 |
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南原繁
南原繁(なんばらしげる、1889年(明治22年)9月5日-1974年(昭和49年)5月19日)は日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。 |
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内村祐之
内村祐之(うちむらゆうし、1897年11月12日-1980年9月17日)は日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学・神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員... |
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松前重義
日本の官僚・政治家・科学者・教育者・工学博士。東海大学創立者。社会党衆議院議員。内村鑑三に師事した、親ソ連派議員。世界連邦建設同盟(現、世界連邦運... |
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「雨ニモマケズ」のモデルとも言われるキリスト教徒。内村鑑三の最も忠実な弟子の一人で、その死に至るまで身の回りの世話をした。岩手県東和賀郡笹間村(現... |
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畔上賢造
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鈴木弼美(すずきすけよし,1899年11月21日-1990年5月26日)は内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者、で初代校長。 |
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新島襄
新島襄(にいじまじょう、英字表記:JosephHardyNeesima、天保14年1月14日(1843年2月12日)-1890年(明治23年)1月23日)はキリスト教の布教家。同志社英学... |
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村上鬼城
村上鬼城(むらかみきじょう、1865年6月10日(慶応元年5月17日)-1938年(昭和13年)9月17日)は日本の俳人、司法書士。本名は村上荘太郎(しょうたろう)。 |
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プロフィール
- 内村鑑三とは
- 幼少期
- 札幌農学校時代
- アメリカ留学時代
- 教員時代
- 不敬事件
- 新聞記者時代
- 晩年
- 関連サイト
内村鑑三(うちむらかんぞう、1861年3月23日(万延2年2月13日)-1930年(昭和5年)3月28日)は、日本人の キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
幼少期
| 1861年(万延2年)高崎藩士内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。 |
| 三度自己を鑑みるという意味で父宜之が「鑑三」と名付けたと言われる。 |
| 関根正雄『内村鑑三』6ページ1866年頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。 |
| 幼少期より、父から儒学を学ぶ。 |
| 1971年(明治4年)廃藩置県により、高崎藩知事の大河内輝声は罷免された。 |
| 父も県小参事を免ぜられ隠居した。 |
| 高崎で白井という人より、手習いを受けた後、高崎藩大河内輝声の創立した英学校に入り、小泉という教師より始めて英語を教えられ、英語にいそしむようになった。 |
| 1873年(明治6年)に内村は単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。 |
| この時の同級生に後の日本銀行総裁の三島弥太郎がいる。 |
| 有馬学校で1年学んだ後、東京外国語学校の下等第四級に編入した。 |
| この時の同級生に、末松謙澄、天野為之、佐藤昌介らがいた。 |
| 後の首相加藤高明は一級に在籍していた。 |
| この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。 |
| 在学中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。 |
| 一年遅れたことにより、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。 |
| この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。 |
| その頃初めて英文講読で旧約聖書の聖書物語触れた。 |
札幌農学校時代
| 1877年4月に東京英語学校は東京大学予備門と改称されて、東京英語学校を終了すれば東京大学への進学が認められることになった。 |
| しかし、内村が入学して3年後の1876年(明治9年)、北海道開拓にあたる技術者を急造する目的札幌農学校が創立された。 |
| 北海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて経済上の理由で入学を決意する。 |
| 関根正雄『内村鑑三』17ページ、後に「なぜ帝大に入らなかったのか」という質問に対して、内村は「金がなかったから」と答えたという。 |
| 札幌へ旅立前に、芝で一ヶ月の合宿をした時に、東京大学予備門時代の同級新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。 |
| 内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。 |
| 初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。 |
| 内村はヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けた。 |
| 札幌には教会がなかったので、牧師の役を交代して、毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。 |
| 改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。 |
| 1878年(明治11年)6月2日には、米国・メソジストキリスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。 |
| 洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。 |
| そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。 |
| その学生の集団を札幌バンドという。 |
| 1881年(明治14年)7月、札幌農学校を卒業する際に、内村と新渡戸と宮部の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。 |
| 卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。 |
| 勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。 |
| 翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。 |
| また、1881年10月に結成された札幌YMCAの副会長になった。 |
| 1882年に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。 |
| 伝道者になるために札幌県に辞職願を提出して、1882年6月に受理された。 |
| しかし、津田仙の学農社農学校の教師になり、12月からは農商務省の役人として水産課に勤め、日本産魚類目録の作成に従事した。 |
| 1882年12月の第三回全国キリスト信徒親睦会には、札幌教会代表で有名な演説を行った。 |
| 1883年夏に安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って1884年3月28日に結婚した。 |
| しかし、半年後には破局して離婚した。 |
| 原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている。 |
| 関根正雄『内村鑑三』25ページ。 |
アメリカ留学時代
| 浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、1884年(明治17年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。 |
| 拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。 |
| 渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリス夫人によりミデヤの叔父の家を紹介された。 |
| 、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護施設を尋ねた時に、医師である院長のI.N.カーリンと出会い,。 |
| そこの知的障害児養護学校で看護人として勤務することになる。 |
| 6月にカーリンはワシントンDCの全米慈善矯正会議に出席する際に内村を同行した。 |
| ワシントンでクリーヴランド大統領に面会している。 |
| ワシントン滞在中に終生の友である、D・C・ベルと出会った。 |
| この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造また、佐伯理一郎とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒のウィスター・モリスと親交を持つ。 |
| この頃、日本にいた浅田タケ4月15日の女児ノブを出産した。 |
| タケはそのことで手紙で復縁を迫った。 |
| タケに洗礼を授けた新島襄も内村に説得したがきっぱりと断った。 |
| 内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。 |
| カーリン夫人はユニテリアンでハーヴァードで学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州グロースターのアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師J・H・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。 |
| 在学中、同大学の総長であり牧師でもあるJ.H.シーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。 |
| 1887年(明治20年)に同大学を卒業し、BachelorofScience(理学士)の学位を受ける。 |
| 続けてシーリーの勧めで、コネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し、1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。 |
| 神学の学位は得ないまま、5月に帰国。 |
教員時代
| 在米中に新潟県の北越学館への教頭としての招聘が一度あったが内村は断り、帰国後新島襄の仲介で契約が成立し、1888年6月6日に館主加藤勝弥と約定書を交わした。 |
| 新島によると独立心の強い内村は新潟行きに難色を示し、正教頭ではなく、仮教頭で赴任した。 |
| 鈴木範久『内村鑑三』43ページ、北越学館で、1年間の契約と共に、内村は伝道活動に携わらないことが約定書で決められていた。 |
| 北越学館のキリスト教のみを教え、日本のことを教えない点と、外国伝道会社の援助を得ることによって自主独立が損なわれているいる点にについて、信仰上の束縛を内村は嫌ったと思われる。 |
| 北越学館ではエレミヤ書を講義し、土曜日には講演会を開き、ルターについて講義した。 |
| 就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村教頭の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。 |
| 調停のために、新島襄は横井時雄を派遣するが、効果はなく。 |
| 成瀬仁蔵は内村と激しく対立して、意見書を著し辞職を迫った。 |
| 戦いに敗れて東京に戻った内村は植村正久の一番町教会(現、日本基督教団富士見町教会)で説教したり、東洋英和学校、明治女学校、水産伝習所などで教鞭を執る。 |
| 東洋英和学校では山路愛山が内村の「万国史」の教えを受けた。 |
| 1886年7月31日に旧高崎藩士の横浜恕の娘横浜かず(横浜加寿子)結婚した。 |
不敬事件
| 1890年(明治23年)から、植村正久の一番町教会の長老木村駿吉の推薦により、第一高等中学校の嘱託教員となった。 |
| 1891年(明治24年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。 |
| 敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。 |
| 事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。 |
| 内村はそれに同意したが、悪性の流感ににかかっていたので、代わりに木下駿吉が行った。 |
| しかし、マスコミが大きく取り上げて「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝され、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。 |
| 内村は流感で病床にあり意識不明だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。 |
| 不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。 |
| そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『基督教新聞』に執筆の場を与えたりした。 |
| 1892年1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になった。 |
| 千葉から帰るとすぐに、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校、名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。 |
| 1892年のクリスマスに京都の旧岡崎藩士の判事の岡田透の娘、内村静子と結婚した。 |
新聞記者時代
| 1897年(明治30年)に上京、黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し、同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となった。 |
| 翌1898年(明治31年)には退社するが、1900年(明治33年)からは客員として寄稿した。 |
| また、1898年(明治31年)に『東京独立雑誌』を発刊し主筆となり、1900年(明治33年)には『聖書之研究』、1901年(明治34年)には『無教会』を創刊した。 |
| この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。 |
| また黒岩や堺利彦、幸徳秋水らと社会改良を目的とする理想団を結成した。 |
| 日清戦争は支持していた内村だったが「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと」(1897年(明治27年)『国民之友』)、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。 |
| 萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、1903年(明治36年)10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は萬朝報を離れることとなった。 |
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1861年
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内村 鑑三(うちむら かんぞう、(万延2年2月... |
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1877年
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東京英語学校は東京大学予備門と改称されて、... |
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