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つながりの強いひと
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君原健二
君原健二(きみはらけんじ、1941年3月20日-)は日本男子の陸上競技(長距離走・マラソン)選手。1960年~1970代前半の戦後日本の男子第1次黄金時代に活躍した... |
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川端康成
日本の小説家。大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表... |
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アベベ・ビキラ
エチオピア出身の陸上競技(長距離走)選手で、オリンピックではマラソンの種目で史上初の2大会連続優勝を果たし、2個の金メダルを獲得した。オロモ人である。 |
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橋本克彦
日本の ノンフィクション作家 。 宮城県 生まれ。 仙台高等学校 卒業。 日本大学 芸術学部除籍。雑誌記者を経て、 1984年 に『線路工手の唄が聞えた』で 大宅... |
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円谷英二
福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、「株式会社円谷特技プロダクション」初代社長。1949年の映画『幽靈列車』までは、圓谷英二の... |
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三宅義信
日本の宮城県柴田郡村田町出身のオリンピック元重量挙げ選手、陸上自衛官。現在は東京都在住。 |
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瀬古利彦
瀬古利彦(せことしひこ、1956年7月15日-)は三重県桑名市出身の元陸上競技・マラソン選手、陸上競技指導者。1970年代後半から1980年代にかけて宗茂、宗猛、中... |
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増田明美
元女子マラソン・陸上競技長距離走選手で、現在はスポーツジャーナリスト・レース解説者・タレントなどで活動中である。1984年ロサンゼルスオリンピック女子... |
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森下広一
森下広一(もりしたこういち、1967年9月5日-)は鳥取県出身の陸上競技者。1992年のバルセロナオリンピック男子マラソン銀メダリスト。鳥取県立八頭高等学校出... |
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為末大
広島市佐伯区出身の陸上競技選手、投資家。株式会社ウェッジホールディングス社外取締役。身長170cm、体重66kg。 |
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山口県長門市出身の中国電力陸上競技部所属の長距離走・マラソンランナー。山口県立美祢工業高等学校-中国電力。最高記録は2時間7分52秒(2001年・びわ湖毎... |
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笠谷幸生
北海道後志支庁余市郡大江村(現在の仁木町)出身のスキージャンプ選手。余市高校-明治大学を経てニッカウヰスキーに所属していた。2003年紫綬褒章。笠谷昌生は... |
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沢木耕太郎
日本のノンフィクション作家、エッセイスト、小説家、写真家。自身の体験に基づいた旅行小説『深夜特急』が代表作であり、この作品は後にテレビドラマ化もさ... |
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中山竹通
中山竹通(なかやまたけゆき、1959年12月20日-)は長野県北安曇郡池田町出身の元陸上競技(長距離種目)選手、指導者。身長180cm、体重58kg(現役当時)。息... |
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ベイジル・ヒートリー
イギリスの元陸上競技選手(長距離)である。ウォリックシャーのケニルワース出身。1964年6月13日のポリテクニックマラソンで、レオナルド・エデレンが前年の... |
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アベベ
イギリス領土だった頃のシンガポール。 祖父母の暮らした国、母の生まれ故郷です。 マレーシア半島 シンガポール スリランカ ボルネオ島 自然の中を裸足で走... |
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有森裕子
元女子マラソン選手で日本におけるプロランナーの草分けでもある。日本体育大学卒業、日本陸上競技連盟の理事、日体大客員教授、国際陸上競技連盟女性委員会... |
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宗茂
宗茂(そうしげる、1953年1月9日-)は日本の気功師。宮崎県延岡市にて「気功健康塾」を主宰。元マラソン選手、陸上競技指導者。大分県臼杵市出身。血液型はAB... |
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寺沢徹
富山県生まれの元マラソン選手で、元マラソン世界記録保持者。 |
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佐藤敦之
佐藤敦之(さとうあつし、1978年5月8日-)は福島県会津若松市出身(出生地は福島県河沼郡会津坂下町)、中国電力陸上競技部所属の男子陸上競技(長距離種目・... |
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プロフィール
- 円谷幸吉とは
- 軌跡
- 東京五輪への道
- 東京五輪で栄光の銅メダル
- 挫折、苦悩の日々
- 突然の自殺
- マラソン
- 関連書籍
- 関連項目
- 関連サイト
円谷幸吉(つぶらやこうきち、本名:つむらやこうきち、1940年(昭和15年)5月13日-1968年(昭和43年)1月9日)は日本の陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛官。福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。
軌跡
| 須賀川市立第一中学校を経て福島県立須賀川高等学校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。 |
| 郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。 |
| 次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、県対抗東日本縦断駅伝などに出場した。 |
| 一方、オーバーワークから腰椎のカリエスを持病として抱え、後年悩まされるようになる。 |
東京五輪への道
| 1962年、東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊体育学校がオリンピック候補育成のため、特別課程の隊員を募集した際には腰痛のため選考会に出られなかった。 |
| しかし、円谷の走りを知っていた駅伝チームのコーチ畠野洋夫の推薦を受けて入校する。 |
| 体育学校入学当初は腰痛が治らず、満足に走れなかった。 |
| しかし畠野が根気よく指導し治療を続けた結果、レースに復帰。 |
| 10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。 |
| 翌1963年8月には20000mで2位ながら世界記録を更新。 |
| 10月の競技会では好記録を連発して10000mのオリンピック代表選手に選ばれた。 |
| この段階では円谷はトラックと駅伝の選手と見られており、マラソンは未経験だった。 |
| しかし、陸連の強化本部長だった織田幹雄は円谷のスピードに着目してマラソンを走ることを勧めた。 |
| 東京オリンピック開催年の1964年、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。 |
| 2:23:31で5位となる。 |
| それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン現在のびわ湖毎日マラソンの前身。 |
| このときは東京オリンピック本番と同じコースで実施に出場、2:18:20.2で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。 |
| なお、オリンピック本番までのマラソン経験3回は、戦後の男子マラソン代表では森下広一(2回)に次ぐ少ない記録であるが、初マラソンからオリンピック本番までの期間は森下が1年半あったのに対し、円谷は7ヶ月でこれは戦後では最短記録である。 |
東京五輪で栄光の銅メダル
| 東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場し、6位入賞と健闘。 |
| これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。 |
| 一方、最終日に行われる男子マラソンについては、君原が日本人では最有力と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。 |
| しかし、男子マラソン本番では君原や寺沢徹がメダル争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。 |
| だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。 |
| これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きが出来なかったことが一因として考えられている。 |
| とはいえ、自己ベストの2:16:22.8(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。 |
| これは東京五輪で日本が陸上競技に於いて獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。 |
| メダル獲得時、円谷は中央大学経済学部(夜間部)の学生でもあった。 |
| 中央大学は師事した村社講平の母校で、箱根駅伝6連覇達成の記録継続中であった。 |
| 箱根駅伝に出場することは、自衛隊体育学校との二重登録等の壁のために実現しなかった。 |
挫折、苦悩の日々
| 次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。 |
| しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。 |
| 所属する自衛隊体育学校の校長が円谷と畠野の理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまで選手育成のために許されて来た特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。 |
| 吉池は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談に追い込んでしまう。 |
| 直後に、体育学校入学以来円谷をサポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の許可(「娶妻願」の提出と受理・承認)を必要とした旧軍の習慣を振り回すのは不当だ」と抵抗した畠野が突然転勤となり、円谷は孤立無援の立場に追い込まれた。 |
| オリンピックの敗北の後、結婚を機に鮮やかな復活を果たした君原健二とはあまりにも対照的であった。 |
| さらに円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間の確保にも苦労するようになる。 |
| その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。 |
| 病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。 |
| 1967年には手術を受ける。 |
| 病状は回復したが、既に嘗てのような走りを出来る状態ではなかった。 |
突然の自殺
| メキシコシティ五輪の開催年となった1968年、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺。 |
| 27歳での夭折だった。 |
| 戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。 |
| 「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に大きな衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。 |
| 父上様母上様三日とろろ美味しうございました。 |
| 干し柿もちも美味しうございました。 |
| 敏雄兄姉上様おすし美味しうございました。 |
| 勝美兄姉上様ブドウ酒リンゴ美味しうございました。 |
| 巌兄姉上様しそめし南ばんづけ美味しうございました。 |
| 喜久造兄姉上様ブドウ液養命酒美味しうございました。 |
| 又いつも洗濯ありがとうございました。 |
| 幸造兄姉上様往復車に便乗さして戴き有難とうございました。 |
| モンゴいか美味しうございました。 |
| 正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。 |
| 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、。 |
| 良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、。 |
| 光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、。 |
| 幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、。 |
| 立派な人になってください。 |
| 父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。 |
| 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。 |
| 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。 |
| 川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』を発表し「繰り返される《おいしゅうございました》といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。 |
| そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。 |
| 美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り「千万言も尽くせぬ哀切」と評した。 |
| (「風景」1968年3月号)当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』で、これらの無責任な発言に対し「(円谷の自殺は)傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺……この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と強い調子で批判した。 |
| また、沢木耕太郎は「円谷の遺書には、(円谷が)幼いころ聞いたまじないや不気味な呪文のような響きがある」と述べている(「長距離ランナーの遺言」)。 |
| 円谷と接した人は口を揃えて、まじめで責任感が強く礼儀正しい好青年だったと評する。 |
| その性格はしばしば自らの不成績を責めるという形になって現れ、それを克服するためにオーバーワークを招きがちだったことが、自殺という悲劇につながったとする見方も強い(当時の日本陸上界は技術論より精神論を至上とすることがまだまだ多く、本人の意思に関わらず過度の練習を美徳とする関係者の慣習もあった上、メンタル面でのサポートやケアなど考えられていなかった)。 |
| また沢木耕太郎は自著の中で、1968年の正月に帰郷した際にかつての元婚約者が別の男性と結婚した事実を知ったことも、円谷が自殺に至った直接の引き金になったのではないか、という推論を述べている。 |
| 出身地の須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。 |
| また、実家には幸吉の没後に家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」があったが、遺族の高齢化により、2006年6月に展示品を市に寄贈したのち秋に閉館した。 |
| その後、市によって市営須賀川アリーナに展示コーナーが設置され、2006年10月の「円谷幸吉メモリアルマラソン」開催記念の特別展示を経て、2007年1月7日より「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開された。 |
| 円谷幸吉の自殺は日本のスポーツ史に最大級の痛恨事として記されている。 |
| 円谷の悲劇の後、日本オリンピック委員会や一部競技統括団体では、オリンピック出場選手などのアスリートに対するメンタルサポートやメンタルヘルスケアが実施される様になっているが、これは円谷の自殺が契機となった苦い教訓の産物でもある。 |
マラソン
| 自己最高記録…2時間16分22秒8(1964年10月・東京オリンピックコース)。 |
関連書籍
| 『もう走れません円谷幸吉の栄光と死』(長岡民男(著)、講談社、1977/12)。 |
| 『栄光と孤独の彼方へ 円谷幸吉物語』(青山一郎(著)、ベースボールマガジン社、1980/3)。 |
| 『栄光なき天才たち5(ヤングジャンプ・コミックス)円谷幸吉&アベベ・ビキラ』(森田信吾(イラスト)、集英社、1989/5、ISBN978-4088614779)。 |
| 『栄光なき天才たち3(集英社文庫コミック版)円谷&アベベ編』(伊藤智義(著)、森田信吾(イラスト)、集英社、1997/7、ISBN978-4086170949)。 |
| 『オリンピックに奪われた命 円谷幸吉、三十年目の新証言(小学館文庫)』(橋本克彦(著)、小学館、1999/5、ISBN978-4094033410)。 |
| 『栄光なき天才たちマラソン円谷&アベベ編(SHUEISYAHOMEREMIX)』(伊藤智義(著)、森田信吾(イラスト)、ホーム社、2007/11、コンビニコミック、ISBN978-4834242744)。 |
| 『孤高のランナー円谷幸吉物語』(青山一郎(著)、ベースボールマガジン社、2008/8、『栄光と孤独の彼方へ』の復刻版、ISBN978-4583101057)。 |
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1962年
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東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊... |
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1963年
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20000mで2位ながら世界記録を更新 |
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