| 1967年、宝塚歌劇団ヘ入団。 |
| 同期は54名で当時の芸名は弓千晶(ゆみ・ちあき)。 |
| 伝説のディスコ赤坂「MUGEN」でゴーゴーガールを務める。 |
| 宝塚時代に知り合った亀渕友香と「MUGEN」で再会し、リッキー&960ポンドに参加。 |
| 翌1969年、『ワッハッハ』がヒット。 |
| この頃は西丘有里と名乗る。 |
| 1971年、リッキー&960ポンドと同じ事務所に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加。 |
| これ以前に西丘有里でレコードもリリースしたらしいが詳細は不明である。 |
| 1971年10月発売の『別れの朝』が大ヒットし一躍人気・仕事の絶頂のさなかだった1973年、突然の脱退を発表して単身渡米もその後数ヶ月で帰国した。 |
| 当時のあるテレビ芸能ニュース番組では「米国留学のため」と放送された記録が残っているが、脱退については |
| 帰国後は、事務所に所属せずマネージャーもつけずにソロとしてライブハウスなどで歌手活動を再開した。 |
| 1976年に古巣のリッキー&960ポンドに復帰(のち3年間所属後再び脱退)。 |
| 1976年暮れごろから、前野の親友でもあり同じく若くして亡くなったジャズ歌手 |
| がリーダーで歌っていた六本木のジャズバー J&B <ロアビルの前、道路を渡った地下にあった>のバンド仲間に会いに夜よく顔を出していたが、当時は酒を飲んでいることが多かった。 |
| この当時前野はここから歩いて15分ほどの赤坂小学校そば赤坂7丁目のマンションに住んでいて時折<鎌倉>から母が様子を見にやってきていた。 |
| <また当時のある女性週刊誌の記事内で母が<大磯>から曜子の部屋を時折掃除しに来る、との記述があるが、少なくとも1977年当時は(母は鎌倉から時折来てくれる)と直接曜子から聞いた人物がいる。 |
| そしてその後、草月会館裏近くの赤坂7丁目を経て80年代初頭には六本木に近い赤坂2丁目と住居を移した>。 |
| 翌年1977年9月、リッキー&960ポンドとアルバム |
| が最高の出来との評価もある。 |
| この名曲、名唱<別れの朝>はちなみに3バージョンある。 |
| 1976年から1977年にかけて前野は日本人ミュージシャンと付き合っていたが、その彼が8月初めに二度目の渡米で日本を去ることになった。 |
| この翌月の9月に録音されたLP『ABRAZAME』の中の1曲<雨のエアポート>は前野曜子が作詞をしており、この別れの悲しみをこの歌に託した。 |
| 実はこの詩の中にその彼の名前が潜んでおり、一人になった寂しさゆえ彼の渡米後、前野は犬を飼い彼の名前をつけて呼んでいた。 |
| 後に昭和54年8月14日発売の週間女性誌のインタビュー記事内でこの当時のことを<黒人ミュージシャンとの交際中に、前野曜子はロサンゼルスで、一人の日本人青年と出会った。 |
| xという二歳年下の若者も、彼女と同じように音楽の勉強に来ていた。 |
| 黒人ミュージシャンとの交際、日本人青年との愛のなかで、彼女は人間として成長していった。 |
| 、、>と、出会い場所に脚色はあるものの、こうインタビューに答えている。 |
| 翌年1978年春、前野は新しい彼氏、作曲家、アレンジャーのK氏と共にニューヨークを短期間訪れ、二人でこの元彼のロフトを訪ねている。 |
| このK氏の力により角川映画出演が可能となり、復帰の大きな足がかりとなった(奇しくもこのK氏も1988年、なんと40歳の若さで亡くなっている)。 |
| 1980年代初期には自己のバンドを組みリサイタルを行った。 |
| この1980年当時の住居は六本木近くの赤坂2丁目であった。 |
| このときのバンド仲間との何枚かの写真では彼女の生き生きとした表情が見てとれる。 |
| <この後病床に倒れたようだが、このあたりから彼女の詳細を知るものがほとんどいないのが実情のようである>。 |
| 1979年に映画『蘇える金狼』の主題歌(タイトル同じ)をリリース。 |
| 同年末には『平凡パンチ』でセミヌードを公開する。 |
| 1980年、映画『野獣死すべし』に、セリフのない役でカメオ出演。 |
| 1982年から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌っていた。 |
| しかし上記のとおり芸能活動に復帰・継続はしたものの、前出のペドロ脱退の経緯や、前野自身アルコール依存など健康上の問題が愈々深刻化するなど、結局往時のような成功・活躍をおさめることはついにできないままに終わった。 |
| 前野曜子には信頼するM子というピアニストの親友がいた。 |
| このM子もやがて70年代末に永住目的で二度目の渡米(ロサンゼルス)をすることになるが、。 |
| 80年代中頃(前野曜子の亡くなる約二年ほど前ー1986年頃?)に渡米以来初めての一時帰国をした。 |
| その時M子もすでに、日本の曜子の病床からの自筆の手紙で、彼女が現在入院中であり、その病気のためかなり夢も自信もなくしている、と言うことは帰国前に知っていた。 |
| しかもかなり思わしくない容態であることは、その曜子の手紙の字の乱れから容易に推測できた。 |
| 日本で曜子の母に電話で<入院中の曜子に是非会いたい> とその病院の名前と場所を何度か尋ねたが、母は電話の向こうで長い沈黙の末<曜子の元気であったときだけを覚えていて欲しい、、>と涙声で語ったという。 |
| <大親友の私でさえついに曜子と面会することは許されなかった> とM子は曜子の23回忌の年(2010年)に米国内の友人に電話で語った。 |
| 曜子がずっと入院をしていたのか、あるいは入退院を繰り返していたのかを知っているのは現在誰もいないようである。 |
| 1988年7月31日に肝臓病で死去していたことが、逝去から2年半以上後となった |
| 稀な美貌と歌唱力を持ち合わせデビュー時は業界・ファンからも期待されていた前野であったが寂しい晩年・最期であったことを窺わせた。 |
| 墓所も不明である。 |
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