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嘉永3年(1850年)、兄の枝吉神陽が中心となって結成した楠公義祭同盟に加わる。
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嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。
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この間に矢野玄道らと交わる。
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元治元年(1864年)、佐賀藩が長崎に設けた洋学校・致遠館の英学生監督となり、英語などを学ぶ。
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慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩し、勤王の志士として活動するが、捕らえられて佐賀に送還され謹慎処分を受ける。
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明治維新後は、慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。
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明治2年(1869年)に参議、明治4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件に携わる。
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明治6年(1873年)2月には、前々年に台湾で起きた宮古島民殺害事件(→台湾出兵を参照)の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈、および交渉にあたった。
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この間に清朝高官と詩文の交換を行い、高い評価を得る。
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明治6年10月の征韓論争に敗れたためいったん下野して、板垣退助らと共に民撰議院設立建白書を提出した。
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しかしその後の自由民権運動には参加しなかった。
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西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在していた。
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明治11年(1878年)、宮内省に出仕して一等侍講。
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明治17年(1884年)、伯爵。
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明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において3ヶ月間内務大臣を務める。
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『副島種臣全集』3巻が(島善高編 慧文社)近年刊行され、伝記に丸山幹治(丸山眞男の父)『副島種臣伯』がみすず書房で復刻されている。
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(現在はオンデマンド版)と、大橋昭夫 『副島種臣』(新人物往来社 1990年)がある。
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なお、評論家で常葉学園大学特任教授の副島隆彦は傍流の子孫にあたる。