| 呉国と中央政府との関係は、文帝の存在もあって一応の安定を得たものの、紀元前157年に文帝が崩御すると、事態は急変する。 |
| 文帝の跡を継いだ景帝はかつて劉賢を殺害した相手であり、さらに景帝の側近・晁錯はかねてより積極的な諸侯王削減策を唱えていた。 |
| これに危機感を覚えた劉濞は、中央政府の政策に反感を覚える楚王家や斉王家と手を組み、紀元前154年、「わしは62歳で軍を率い、わしの末子は14歳で従軍している。 |
| これより62歳以下、14歳以上の男子には兵役に就く義務を課す」と号令し、二十余万の軍勢を率いて挙兵する。 |
| これが呉楚七国の乱である。 |
| 情勢は当初、反乱軍が優勢であり、長安では討伐軍への従軍を命じられた諸侯がその費用を金貸しに借りようと申し込んだ際に、長安中の金貸しから断られたという逸話が残るほどであった。 |
| また、劉濞の亡弟・劉広(徳哀侯)の子である劉通(徳頃侯)と、かつて呉で宰相を務めていた袁盎が説得したものの、自ら漢の東帝を自称し、既に自らが皇帝になったかのようにふるまって説得に応じず、袁盎を抑留して自分の将軍にしようとした。 |
| しかし、有利な情勢に気をよくした劉濞の作戦ミスと周亜夫の活躍により、徐々に形勢は逆転し、呉軍は壊滅した。 |
| 劉濞はわずかな側近たちを引き連れて、かねてから親交のあった東越王の下へ逃走する。 |
| しかし、ここで東越王の裏切りに遭い、刺客に殺害された。 |
| また、首謀者の劉濞の死を知り、反乱を共謀した各国の王やその太子らも自殺、もしくは漢軍に討ち取られ、呉楚七国の乱は3ヶ月で鎮圧された。 |
| これ以降、漢王朝は諸侯王の勢力削減策をさらに強化し、中央集権制への移行を進めることとなった。 |