| ;『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』(岩波書店、2010年)。 |
| 映画論、アニメーション論、漫画論の3部構成。 |
| 序章を含む8つの章はそれぞれ独立した批評的テクスト分析でもあるが、「ポピュラーな視覚媒体のなかに芸術的アスペクトを見いだすこと」という共通のテーマで繋がっている。 |
| 主眼がおかれているのはテクスト分析である。 |
| これまでの著書でもテクスト分析の定義はなされてきた。 |
| しかし芸術的テクストは絶えず読解され、従来の意味から逸脱し続けるものであり、外部からの理論の一律的適用(フェミニズム論や精神分析の適用を例としてあげている)はその特異性を疎外するとの主張から、本書でも、まず序章においてヒッチコックの『レベッカ』の主題論的テクスト分析を通して、その再定義を試みている。 |
| そしてその方法論でもって新海誠のアニメーション映画が可能にした風景映画の特質を規定している。 |
| 漫画的テクストの分析もなされている。 |
| 第5章では漫画家荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』を分析し、それが古典的漫画における人間身体表象や齣割りや画面構成から逸脱した世界的に画期的なマニエリスム芸術漫画であることを論じ、第6章では、石森章太郎、ちばてつや、はるき悦巳らを取り上げ、それぞれが描く独自の漫画テクストの分析を通して、空間芸術と考えられがちな漫画が読者との時間芸術であることを論証する。 |
| ;『映画館と観客の文化史』(中央公論新社新書、2006年)。 |
| 本書は、アメリカ、日本、それぞれの映画の黎明期から今日までの上映形態と観客の関係を分析解説する。 |
| 著者は、映画館(映画が上映される場所/装置)を、観客を世界の中心に位置づけ、世界を視覚的に統御したいと思う人間の欲望を満足させる装置だと捉える。 |
| そして上映形態、当時の文化的・社会的背景から、各時代の観客が映画観賞によってどのような欲望を満たしてきたかを入念に考察する。 |
| 観客が観る場所と媒体が変われば、映画体験は異なるものになる。 |
| しかし、これまで上映形態を軽視し映画自体に一定不変のもの(解釈)が存在するという誤解から、上映形態の議論は日本では全く行われてこなかった。 |
| 本書は、そういった立場から、映画館をめぐる日本初の網羅的省察を試みている。 |
| 映画がいかに「場所」と関係づけられてきたか、19世紀のパノラマ館から始まり、日本の弁士、京都市をふくむ世界中のヘイルズ・ツアーズ(擬似列車映画館での列車映画興行)の模様(1900年代初頭から1910年代まで)、アメリカのニッケルオディオン、映画宮殿、ドライブ・イン・シアター(1950年代ブーム)、フライ・イン・シアター、列車内映画館、客船内映画館、テーマパーク内映画館、アイマックス、シネプレックスその他、映画と結び付きのある様々な上映形態を網羅している。 |
| そして、それらから映画を享受する観客を再定義し、また映画産業都市京都と観客との特異な関係、日本初の包括的な映画館(観客)論を展開する。 |
| ;『映画の論理 新しい映画史のために』(みすず書房、2005年)。 |
| 本書の第3章ではハリウッドの特異な映画作家ニコラス・レイの1950年代の作品群が論証され、人間精神の諸問題を構図や配色によって表象する手法のたくみさが個々のテクスト分析によって明らかになる。 |
| そうした優れた映画的センスとともに解き明かされるのは彼の映画における外見と本質の乖離と分節である。 |
| 同時代に看過されたニコラス・レイ作品の本質はここにジェンダー・トラブル、二元論的ジェンダー観の否定という言葉によって見直され、『黒の報酬』『危険な場所で』の主人公たちのように、あやまてる対象への過剰な自己投入の結果、自ら抑圧したものの暴力的回帰によってヒステリーを発症する男性中心社会イデオロギーの姿が逆説的に浮き彫りになる。 |
| 章末においてはフィルム・ノワールや「年少犯罪もの」といった従前のジャンル的枠組みを揺るがす、そうした「男性メロドラマ」の誕生の瞬間が最初期の監督作品『暗黒への転落』の法廷(「善」と「悪」の二元論的枠組みの場)を舞台とするクライマックス・シーンの考察によって明らかにされ、ニコラス・レイの同時代の社会的問題にたいする独創的表象が考察される。 |
| ;『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』(みすず書房、2005年)。 |
| 本書はサスペンス映画の巨匠と呼ばれるアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』を中心に、映画史上、他の誰もまだはっきりと述べていない彼の映画における「本質」(ポスト古典期の始動)というべきものについて検討する。 |
| その「本質」というのは、この映画の外見と内実が食い違うのではないかという前提をもとにしている。 |
| 本書によると、『裏窓』は一見したところ殺人事件をめぐるミステリ映画に見えるものの、殺人事件が起きたという外見を立証できる、映画という視聴覚媒体に本質的な視覚的証拠はこの映画のどこにも何ひとつ見当たらない、観客の目に届かないところにあるという曖昧性の映画である。 |
| ここで筆者はヒッチコック映画における視覚的構造のポスト古典期性を詳細に解き明かす。 |
| 外見と内実の乖離というヒッチコック映画の特徴がヒッチコック映画が他の凡百の古典的ハリウッド映画と異なる点であると論じながら、筆者は古典的映画の歴史に揺さぶりをかけたヒッチコックの映画的特徴を世界映画史の主流のなかで、さらに検討する。 |
| ;『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(筑摩書房、2004年)。 |
| 本書はSF映画/フィルムノワール『ブレードランナー』を梃子に、作品論と映画史、テクスト分析と歴史分析、映画論と諸文化史がどこまで可塑的で創造的な関係を結びうるのかを最大限に追究した、映画学と映画批評の実験の書である。 |
| そこでは当然のことながら、映画作品の意味の生成変化を、作者の意図なり既成の文化理論なりで堰き止める教条主義的な議論は破棄される。 |
| 著者は映画的テクスト『ブレードランナー』をショット単位に分割した上で、映画技法と俳優の演技、また映像と音響の主題(「眼球の主題」「弔鐘の主題」等)の多様な展開をロラン・バルトの『S/Z』を思わせる断章形式で追跡し、さらにはその成果を通じて本作に伏流する長大な映画史(「ユダヤ人とハリウッドの相関史」「都市映画の歴史」「シャワーの映画史」等)と諸文化史(写真、絵画、探偵小説、メロドラマと悲劇等)を再考する。 |
| こうして再編成された方法論の下に、映画史上もっとも多くの議論が費やされてきたテクスト『ブレードランナー』の新たな解釈が導出される。 |
| すなわち本作は、通常の古典的ハリウッド映画と同様に二元論的枠組みに基づくメロドラマとして始まりながら、生と死、勝利と敗北、実像と虚像、人間とレプリカントといった対立を弁証法的に止揚する「主人公」ロイの壮絶な身振りを通じて(著者の見解によれば刑事デッカードは偽の主人公に過ぎない)、そうした近代のイデオロギーを果敢に超克する悲劇として終わろうとするハリウッド映画の類稀なる変異体である。 |
| 本書はこうした独自の方法論と解釈の提出をもって、過去の映画的テクストが絶えず未知の映画史を生き直そうとするその潜勢力を立証する。 |
| ;『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』(フィルムアート社、2002年)。 |
| もっともこれら一連の論考には映画的テクストの「かけがえのない細部」を梃子に新たな意味の産出をめざすという著者のデビュー以来の批評的姿勢が通底している。 |
| 質量ともに本書のハイライトをなすのは第4章の溝口健二論である。 |
| ここで著者は日本映画最高傑作たる『残菊物語』を題材として溝口のワン・シーン=ワン・ショット(とその結果としての切り返しの組織的回避)が映画的テクスト上でいかなる修辞的効果を果たしているかをシーンごとに詳細に論じ、本作のメロドラマ映画としての突出した特異性を明らかにしている。 |
| ;『映画とは何か』(みすず書房、2001年、吉田秀和賞)。 |
| 本書は一見ハリウッド映画というメジャーな領域を対象としているかに見えるが、その栄光の陰に隠れたマイナー映画(知名度の低い映画だけでなく、白人中心主義イデオロギーのために既存の映画研究において重要な議論が看過されてきた無名作品をも含む)を論じたものとなっている。 |
| 第一部では、観客を前代未聞の恐怖に導いた過程を分析したヒッチコックの精細な『サイコ』テクスト分析、従来看過されてきた記号の視認についてのアメリカ亡命時代のフリッツ・ラング論、映画史的約束事から分析されたホロコースト映画論が取り上げられ、「理想的な観客」として「映画を見る」行為が再検討されている。 |
| 一方、第二部では「映画史を書く」という主題のもと映画史の補完が行われている。 |
| 映画史初期から古典期にかけて密接なものであり続けてきた映画と列車の関係、演劇的フレームから映画を解放した功績によってアメリカ映画の父と呼ばれるD・W・グリフィスのアメリカン・インディアン初期映画、そして米国映画史に重要な足跡を残しながらも決して反映されることのなかった黒人劇場専門映画の歴史とアメリカ映画史上最初の優秀な黒人映画作家オスカー・ミショーの作品群を革新的な視点から分析している。 |
| ;『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』(筑摩書房、1996年)。 |
| 本書は1930年代後半から1940年代前半における古典的ハリウッド映画の製作様態、作家とテクストと制度の関係を当時の製作一次資料と映画テクストの複合的分析を通じて検証したものである。 |
| 第1章ではプレストン・スタージェス監督のスクリューボール・コメディ製作の一次資料と映画製作倫理規定の検閲とテクスト分析の関係が、またフランク・キャプラ監督の人民喜劇というジャンル映画が、第2章ではフランク・キャプラ監修の戦意高揚映画と陸軍による検閲の問題が、それぞれ検証されている。 |
| この二章を通じて、第二次世界大戦前夜から戦中に、喜劇映画からプロパガンダ映画へと転向した映画作家キャプラと、喜劇映画を監督しつづけた映画作家スタージェスが、時代の陰画の陽画として位置づけられる。 |
| 第3章はキャプラ監修の黒人向け戦意高揚映画に出演した黒人俳優カールン・モスへのインタビューである。 |
| 第4章では女性映画からフィルム・ノワールへと戦後公開にあわせて製作変更される特異な複合ジャンル映画『深夜の銃声』のテクスト分析を通じてハリウッドの戦時体制から戦後体制への変化、そしてそのジェンダー表象の水準への影響が論じられる。 |
| 巻末には本邦初となる映画製作倫理規定(ヘイズ・コード)の全訳が添えられている。 |
| ;『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社、1996年)。 |
| 本書は、1920年代から1990年代にかけての支配的ハリウッド映画を「フィルム・ノワール」、「ギャング映画」、「スワッシュバックラー映画」、「道化喜劇映画」、「スクリューボール・コメディ」、「ファミリー・メロドラマ」、「ミュージカル映画」、「恐怖映画」、「戦争映画」、「西部劇」の10種類のジャンルの歴史と文体から捉え返し、ジャンル映画の特色と歴史を総括して新旧の作品分析を交えて考察している。 |
| 本書のジャンル論は、ハリウッド映画のジャンル一般の歴史ならびに個々の映画テクストの肌理だけでなく、アメリカ社会においてジャンル映画とその消費者である観客とが交錯した歴史的状況(ヴェトナム戦争映画や新移民労働者向けの初期道化喜劇映画)や社会的諸問題(人種・性的問題や銃規制問題)も広く射程に収めている。 |
| 本書の「ジャンル映画」という新たな視座からのアプローチは、日本の映画批評および映画学において1990年代半ばまで支配的で強力であった「作家主義」という言説編制から方法論として自由になる契機となった。 |
| 本書では画面の密度、フレームの運動、ショットの編集等、映画の構造的側面からの映画分類学が展開される。 |
| たとえば画面の密度に関する第1章では、映画史上もっとも密度の低い画面(ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』の霧の波止場のシーン)ともっとも密度の高い画面(ルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』のオペラハウスのシーン)が論証され、その両極間にあらゆる映画を記述分類する可能性が示される。 |
| 「鏡の迷路」(本書のメイン・タイトル)とは物語映画の別称であるが、これは映画が「現実」を忠実に再現しようとする鏡に似ており、物語が入口と出口を備えた安全な迷路に似ているからである。 |
| しかし一方でアラン・ロブ=グリエのような反表象映画も存在する。 |
| 筆者によれば、こうした反物語映画は伝統的な物語映画が再現構築してきた「現実」を否定し、一連の出来事のなかに因果律を見出すことを放棄して、入口も出口も欠いた危険な鏡の迷路となる。 |
| ;『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社、1988年)。 |
| ダグラス・サークという1940年代から50年代のハリウッド亡命映画監督のファミリー・メロドラマ映画の分析からはじまり、R・W・ファスビンダーという、サークのメロドラマ的主題を、ジェンダー論的、年齢的、人種的に変革し、1980年代に37歳で夭折する西ドイツ映画作家の映画的文体の抽出と、彼のおどろくべき代表作『13回の新月のある年に』のテクスト分析が試みられる。 |
| 本書では、ハリウッド的メロドラマの図式が緻密な分析によって浮き彫りとなり、その過程で映画という媒体におけるポリティックスが詳述される。 |
| ただ、本書はそれだけにとどまらず、従来のメロドラマの伝統を継承しながらも創造的に破壊した映画作家ファスビンダーについても踏み込む。 |
| また論考の射程は、メロドラマというジャンルの考察のみならず、映画という視聴覚媒体の変革的特徴(「映像と音響の自己増殖」にいたるアラン・ロブ=グリエ論)や物語論やフェミニズム論(マルグリット・デュラス論)が進行する70年代から80年代の同時代の実験的物語研究にまで広がりをみせる。 |
| 例えば、ヒッチコックの作家論やジョーン・フォンテインの女優論がメロドラマの語彙を活用して新たに考察し直されている。 |
| 洋の東西や時代を問わず多岐にわたるフィルムの肌理を丹念に追っていく本書の作業を通して、映画がメロドラマと切っては切り離せない関係を取り結んでいる事が明らかになっていく。 |
| そしてメロドラマが単なる映画の一ジャンルにおわるのでなく、分析ツールとして有効である事が読者に明瞭になる。 |