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つながりの強いひと
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加藤清正
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。その後も各地を転戦し... |
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福島正則
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 |
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細川忠利
江戸時代初期の大名、豊前国小倉藩の第2代藩主。後に肥後国熊本藩初代藩主。肥後細川家2代。 |
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浅野長晟
江戸時代の大名。備中国足守藩主、紀伊国和歌山藩第2代藩主、安芸国広島藩初代藩主。浅野氏宗家2代。徳川秀忠の義弟。 |
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徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
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加藤正方
熊本藩加藤氏の家臣。父は加藤可重で、兄に重正。幼名は清六。通称は清左衛門。のち片岡の名字を名乗る。号は風庵。官途は右馬允。 |
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蒲生秀行
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。陸奥国会津藩初代藩主。織田信秀の曾孫、織田信長の外孫。織田信忠・織田信雄・織田信孝は伯父、徳川秀忠は義兄。 |
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徳川忠長
江戸時代初期の駿府藩主。江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の三男。母は浅井長政の娘で正室の江。同母兄に第3代将軍・徳川家光。極位極官が従二位権大納言で、領... |
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徳川家光
江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年-1651年)である。2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる江であった。乳母は春日局(福... |
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小西行長
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。洗礼名アウグスティヌスを持つキリシタン大名でもある。泉州堺の商家に生まれ、一時期は宇喜多氏に仕え、後... |
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細川忠興
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て豊前国小倉藩初代藩主、肥後国熊本藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏... |
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前田利常
安土桃山時代から江戸時代の武将、大名。加賀藩第2代藩主。加賀藩祖前田利家の4男。母は側室の寿福院。異母兄に前田利長、前田利政など。なお、死後にはその... |
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土井利勝
安土桃山時代の武将。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川... |
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佐々成政
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。尾張国出身。父は佐々成宗(盛政とも)。通称内蔵助(くらのすけ)。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司... |
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前田利家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生ま... |
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藤堂高虎
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知ら... |
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振姫
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の三女。母は側室・穴山氏(お竹の方)。院号は正清院(しょうせいいん)。江戸幕府2代将軍・徳川秀忠... |
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酒井忠勝
江戸時代の小浜藩下屋敷「矢来屋敷」に由来しています。 屋敷内には、江戸詰の藩士たちが居住する長屋がありました。そこで生まれたのが蘭方医・杉田玄白です... |
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加藤清
著者情報 加藤 清 1957年東京生まれ。亜細亜大学経営学部卒。高齢者専門旅行社の船橋支店に支店長として勤務中、会社が倒産。その後、東武旅行サービス取締役... |
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家老
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。 |
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プロフィール
- 加藤忠広とは
- 相続と改易
- 流人の生活
- 改易の理由
- 子孫
- 逸話
- 参考文献
- 小説
- 関連サイト
加藤忠広(かとうただひろ)は、江戸時代前期の大名。肥後熊本藩の第2代藩主。
相続と改易
| 慶長6年(1601年)、加藤清正の三男として生まれる。 |
| 兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。 |
| 慶長16年(1611年)、父の清正が死去したために熊本藩主を継いだ。 |
| 11歳の若年であったため、重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。 |
| しかし父と違って統率力に欠け、家臣団を完全に掌握することができず牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われている。 |
| 寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなった。 |
流人の生活
| 出羽丸岡に1代限り1万石の所領を与えられ、母・正応院や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人の一行で江戸を立ち(細川忠興書状)、肥後に残していた祖母(正應院母)も呼び寄せて丸岡で22年間を過ごした。 |
| 丸岡は堪忍料であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名は専ら忠広の身辺に仕えた。 |
| 忠広は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯山参拝や水浴びなどをしたりかなり自由な生活の様子が諸史料に見える。 |
| 配流の道中に始めた歌日記一年余の三百十九首を「塵躰和歌集」に編んでいる。 |
| 徳川義宣の研究によれば「小倉百人一首」で耳馴れた語句を用いた歌が数多く、「伊勢物語」にも大きく影響を受け、東国へ下った業平をわが身に比べ感慨にふけった様子が伺え、同様に光源氏にわが身を映したものか「源氏物語」の引用も多く見られるようである。 |
| 尺八など楽器に親しむ歌もある。 |
| 表には何でも言うがままに働く気心知れた小姓たちがおり。 |
| 奥では母や乳母、祖母、愛妾、侍女たちの尽きせぬたくさんの愛情に包まれて歌を詠み、源氏を読み、楽器を演奏し、花鳥風月を愛でて美酒に酔う、華やいだ生活が見えてくる。 |
| 20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に死去。 |
| 遺骸は忠廣の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母正應院の遺骸と一緒に山形県鶴岡市の本住寺に葬られ墓も仲良く並んで造られた。 |
| 家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった(のちに乱心したとも)。 |
| 家臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えたという。 |
改易の理由
| 嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだことが理由であるとされるが、他にも改易の理由には諸説あり、忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも、駿河大納言事件に連座したためとも言われている。 |
| 春日局の弟齋藤俊光は父の清正より5000石を拝領して忠広にも仕えていたが、忠長と親交が深まると暇を請い熊本より退去し、旗本として幕府に同石高で召し抱えられている。 |
| また、加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名、しかも豊臣氏と血縁関係にあったために幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて取り潰されたという説もある。 |
子孫
| 正室の崇法院は忠広の配流に同行しなかった。 |
| 嫡男の光広は飛騨高山藩主金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、天性寺に蟄居したが、配所にて過ごすこと1年後の寛永10年(1633年)に病死してしまった。 |
| これには自刃説、毒殺説もある。 |
| 次男の正良は藤枝姓を名乗り母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の後を追って自刃してしまった。 |
| これにより加藤家の後継者が無くなり、領地は収公された。 |
| 娘の献珠院は忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院忠広の姉妹。 |
| 徳川頼宣正室のはからいで旗本・阿倍正之の五男・正重に嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去。 |
| 丸岡において2子を儲けた(熊太郎光秋、女子某)といわれているが、公にはできなかった。 |
| 女子某の子孫は5000石相当の大庄屋、加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。 |
| しかし、この家系を最後に継いだ加藤セチ(1893-1989、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)の死去によりその本家筋は断絶。 |
| 筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は山形県を中心に全国各地に散らばっている。 |
逸話
| 父の清正と違って暗愚だったという。 |
| ある夜、老臣の飯田直景を呼んで「わしは力を持ちたいと思う。 |
| 十人力もあれば、重い鎧が2着は着れる。 |
| それならば矢や弾丸も決して通さないだろう」と述べた。 |
| 飯田は「父君の清正公は薄い鎧を着て多くの合戦に出て、1度も怪我などされませんでした。 |
| それに用心しても運命次第で怪我などします。 |
| そのような力など必要ございません」と諫めた。 |
| 飯田は退出後「これでは加藤家も末よ」と嘆いたという(神沢杜口の翁草)。 |
| 一方で忠広には思いやりがあったとされる。 |
| 庄内に流されると、この豆は西国には産しないからと肥後時代に懇意にあった知人に贈った。 |
| この豆は西国で広まるが、忠広が農事に心がけていたことを示す逸話となっている(広瀬旭荘の九桂草堂随筆)。 |
参考文献
| 水野勝之・福田正秀『加藤清正「妻子」の研究』(2007年ブイツーソリューション)。 |
| 『世界人物逸話大事典』角川書店。 |
小説
| 南條範夫『加藤肥後守忠広』(文春文庫)・『大名廃絶録』収録)・1993年。 |
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1601年
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加藤清正の三男として生まれる |
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1611年
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父の清正が死去したために熊本藩主を継いだ |
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