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つながりの強いひと
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加藤明友
石見吉永藩主。後に近江水口藩の初代藩主となる。加藤嘉明の孫にあたる。水口藩加藤家3代。 |
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加藤嘉矩
下野壬生藩の第2代藩主。近江水口藩の初代藩主。水口藩加藤家5代。元禄6年(1693年)10月21日、近江水口藩の初代藩主・加藤明友の三男・加藤明治の長男として... |
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松平輝貞
江戸時代の大名。徳川綱吉、徳川吉宗の側近。側用人、老中格。大河内松平家の上野国高崎藩(群馬県高崎市)藩主では初代。高崎藩系大河内松平家2代。 |
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鳥居忠英
江戸時代の大名。能登下村藩主。近江水口藩主。下野壬生藩の初代藩主。壬生藩鳥居家5代。 |
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三浦正次
日本の江戸時代の大名。下総矢作藩主、のち下野壬生藩初代藩主。六人衆(後年の若年寄)の一人。美作勝山藩三浦家初代。三浦正重の長男。母は土井利昌の娘(... |
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加藤嘉明
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主となる。近江水口藩加藤家初代。父は徳川氏(松平氏)に仕えていた徳... |
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阿部忠秋
江戸時代前期の下野壬生藩・武蔵忍藩藩主。忠秋系阿部家初代。徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた。同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。「細川頼之... |
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加藤明煕
近江水口藩の第3代藩主。水口藩加藤家7代。享保6年(1721年)9月21日、分家の加藤明教の次男として江戸で生まれる。延享2年(1745年)8月21日に宗家で水口藩... |
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加藤明成
江戸時代前期の大名。陸奥国会津藩の第2代藩主。水口藩加藤家2代。 |
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加藤明允
近江水口藩の第6代藩主。水口藩加藤家10代。第7代藩主・加藤明陳の長男。寛政11年(1799年)9月6日、父の隠居により家督を継いで第8代藩主となる。後桜町天皇... |
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加藤明軌
近江水口藩の第10代藩主。水口藩加藤家12代。文政11年(1828年)1月23日、第9代藩主・加藤明邦の次男として江戸で生まれる。弘化元年(1844年)12月16日、従... |
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三浦明敬
日本の江戸時代の大名で、下野壬生藩第3代藩主、日向延岡藩主、三河刈谷藩初代藩主。美作勝山藩三浦家3代。 |
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加藤明経
近江水口藩の第2代藩主。水口藩加藤家6代。享保8年(1723年)10月21日、第3代藩主・加藤嘉矩の長男として江戸藩邸で生まれる。享保9年(1724年)に父が死去し... |
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徳川家光
江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年-1651年)である。2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる江であった。乳母は春日局(福... |
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加藤明邦
近江水口藩の第7代藩主。水口藩加藤家11代。文化5年(1808年)6月29日、第8代藩主・加藤明允の長男として江戸で生まれる。文化12年(1815年)、父の死去によ... |
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加藤明実
近江水口藩の第9代(最後)の藩主。水口藩加藤家13代。嘉永元年(1848年)3月1日、第9代藩主・加藤明邦の七男として江戸で生まれる。文久3年(1863年)12月29... |
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日根野吉明
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。信濃国諏訪藩主、下野国壬生藩主、豊後国府内藩主。日根野高吉の長男。日根野弘就の孫。母は戸田忠成の娘。正... |
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徳川綱吉
徳川徳松、鶴姫。俗に、柳沢吉里が綱吉の落胤であるといわれるが、実際には疑わしい。 |
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徳川家宣
江戸幕府第6代将軍(在職:1709年-1712年)である。甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・天英院熙子。... |
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大久保忠増
江戸時代の大名、老中。相模国小田原藩第2代藩主。小田原藩大久保家4代。 |
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プロフィール
加藤明英(かとうあきひで)は、近江水口藩の第2代藩主。下野壬生藩の初代藩主。水口藩 加藤家4代。
経歴
| 承応元年(1652年)7月29日、水口藩の初代藩主・明友の長男として生まれる。 |
| 寛文5年(1665年)11月7日、第4代将軍・徳川家綱と拝謁する。 |
| 貞享元年(1684年)、家督を継ぎ、翌年12月28日に叙任される。 |
| 水口藩では善政を敷いていたと言われている。 |
| 元禄2年(1689年)8月に奏者番と寺社奉行を兼任という形で任じられ、5000石を加増されて2万5000石の大名となる。 |
| 元禄3年(1690年)10月21日には若年寄となり、元禄8年(1695年)には下野壬生に移封された。 |
壬生移封以後
| ところが水口藩時代は文武両道の名君と呼ばれたはずの明英は、壬生に移封以降、年貢増徴を特に厳しくするなど、悪政を敷いてしまった。 |
| このため「七色の掛物」と称された百姓一揆が発生してしまう。 |
| 正徳元年(1711年)12月12日、若年寄を辞任し、翌年1月2日に死去した。 |
| 最初に後継としていた、実弟で養子の明治は兄より先に死んでいたため、甥にあたる明治の長男の嘉矩が跡を継いだ。 |
人物・逸話
| 五代将軍徳川綱吉に実子がなかったため、幕府は後継将軍について長く議論してきた。 |
| 宝永元年(1704年)12月5日、後継は綱吉の甥に当たる甲府藩主徳川綱豊(のちの家宣)に正式決定した。 |
| その前日4日、江戸城より家宣の下に「明日、登城すべし」との密かな使者が遣わされた。 |
| 内々に「明日、公式発表することになった」という連絡である。 |
| つまりこの時点では、たとえ幕閣の多くの人間が関与していようが噂していようが、まだ公式になっていない幕府の機密事項、という扱いである。 |
| ところがその4日の夜、明英から家宣の下に、家宣が正式に後継者となれば住まうことになる江戸城西の丸の絵図面と大鯛二匹とが私的に送られてきた。 |
| 当時の明英は若年寄として幕政に参画し、綱吉の覚えも目出度く、重要事項を容易に知り得る立場にあった。 |
| もしかしたら決定にすら何らかの関与があったかもしれない。 |
| また、江戸城西の丸の絵図面は、明日以降に住まうであろう家宣への心遣いであったかも知れないし、「もう内々には決まっているのだから、絵図面だけ送るのも・・・」というつもりの鯛であったかも知れない。 |
| しかし家宣はこれを”次期将軍たる自分へのおもねり”、そのための贈賄と受け止めた。 |
| また気軽に江戸城内の図面を渡すのは重大な軍事機密漏洩である。 |
| さらに未だ公ではない幕府の機密を、たとえ私的な連絡であるにしても、職務上知りえたからといって使用して良いものではない。 |
| ともあれ、この一件により家宣は明英を遠ざけることとし、明英自身も、己の軽率さを嘆いたと伝わっている。 |
| 以降伝わるところでは、上記の事件を理由に、自らの栄進に望みが無くなった、と嘆くあまりに以降政道を誤るようになり、発狂し死したなどといわれている。 |
| (ただし、彼の実弟である溝口政親も暗愚で酒乱などとして改易されており、曽祖父加藤明成もまた、暗愚や暴虐という伝承の残る人物ではある)。 |
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1684年
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家督を継ぎ、翌年12月28日に叙任される |
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1704年
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後継は綱吉の甥に当たる甲府藩主徳川綱豊(の... |
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