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当時東京都小河内村に建設中だった小河内ダムの破壊工作を目指した小河内工作隊の一員として活動した。
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工作隊のメンバーには、のちの共産党国会議員津金佑近や、映画監督の
土本典昭などがいた。
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勅使河原は、村民向けのガリ版新聞に版画を刷り入れる任務であった。
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卒業後の1953年、友人から美術映画「北斎」の企画を持ち込まれ、これを監督したことから映画界に入り、
亀井文夫監督の記録映画「砂川」「生きていてよかった」「世界は恐怖する」などの制作に協力したのを経て、
木下恵介に師事した。
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のち
松山善三、
羽仁進、草壁久四郎、
荻昌弘ら同世代の映画人とシネマ57を結成し、集団実験フィルム「東京1958」を制作。
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1959年に父蒼風に従って渡米した際、16ミリカメラを持参し、旅行先で知り合ったプエルトリコ系のプロボクサー、ホゼー・トーレスのトレーニングから試合までの様子を記録した短編「ホゼー・トーレス」を発表。
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この間、アートシアター運動の中心人物としてその組織化に尽力し、1962年
安部公房脚本のテレビドラマを映画化した自身初の長編劇映画「おとし穴」を監督、これがアート・シアター・ギルド初の日本映画作となった。
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1964年、勅使河原プロを設立。
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同年再び安部と組み、砂の穴に閉じ込められた女と男を通じて人間の本質を描いた野心作「砂の女」を映画化し、カンヌ国際映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭銀賞、毎日映画コンクール作品賞、キネマ旬報ベスト1位を獲得。
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さらにアカデミー賞監督賞・外国語映画賞にノミネートされるなど、国内外で絶賛され、「砂の女」は自他共に認める生涯最高の代表作となった。
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以降も1966年「他人の顔」「インディース長編記録映画・暴走」、1968年「燃え尽きた地図」などで国際的に高く評価され、1968年には日本人初のアカデミー賞審査員を務めたが、1972年米軍岩国基地のドキュメント「サマー・ソルジャー」のあとはしばらく映画を離れ、福井県宮崎村の草月陶苑で越前焼の作陶に打ち込んだ。
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その後、1979年に父が、2代目家元を継いだ妹の霞が翌年に相次いで死去し、1980年草月流3代目家元を継承。
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1984年にはスペインの建築家ガウディを題材とした「アントニー・ガウディ」で映画界に復帰し、1987年から「草月シネマパーク」を再開した。
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1989年(平成元年)には久々の劇映画となる
野上弥生子原作の「利休」を風格ある大作にまとめあげ、モントリオール世界映画祭最優秀芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、健在ぶりを示し、1992年には
富士正晴原作の「豪姫」を監督した。
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セットのいけばなも自作している。
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同年、紫綬褒章を受章。
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華道家としては複数人で行う生け花『連花』を提唱し、また1993年のパリ日本文化祭での大茶会をプロデュースした。
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作庭やオペラ出演、テレビのドキュンメンタリー番組にも手を広げ、多彩な芸術活動を体験に根ざした新しい華道家として注目を集めた。
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2001年4月14日、逝去。