| 1990年2月1日、「チャコフ・ユーリ」というリングネームでバンタム級でプロデビュー。 |
| ヘビー級などの重量級の選手に注目が集まり、来日当初はさしたる注目を浴びていなかったが、アラン田中を3ラウンドTKOで下したデビュー戦は衝撃的で、当時の専門誌では今すぐにでも世界で通用するのではないかと言われるほど評価される。 |
| 当初の注目とは裏腹に試合内容がぱっとせず、プロ不適格とされ早々に解雇される重量級の選手達をよそに、圧倒的な実力を示し続けペレストロイカ軍団の中で最後まで日本で闘い続けることになる。 |
| 1991年3月、日本王座に初挑戦する予定であったが、当時の日本フライ級王者であったピューマ渡久地が試合前に所属ジムとトラブルを起こし失踪したため、試合中止となった。 |
| なお、渡久地は王座を剥奪された。 |
| その後、あまりのユーリの強さに対戦相手として名乗り出る選手が現れず、一時はユーリを王者に認定する案も出された。 |
| ユーリ自身は日本王座にこだわりがあるわけではなかったが、当時は安易な世界挑戦試合の乱発を防止するため「世界挑戦は最低でも日本王座を獲得してから」という暗黙のルールがあった(なお、現在このルールは消滅している)。 |
| その後、世界挑戦が現実味を帯びてきたユーリのリングネームを、所属する協栄ジムから誕生した最初の世界王者海老原博幸にあやかり、「チャコフ・ユーリ」から「ユーリ海老原」に改めた。 |
| 1991年7月15日、渡久地の王座剥奪によって空位となった日本フライ級王座決定戦に出場。 |
| 紆余曲折の末、ようやく対戦相手として名乗り出た水野隆博と対戦し、初回に3度のダウンを奪うKO勝ちを収め、王座獲得に成功。 |
| その後、11月25日に初防衛成功後、王座返上。 |
| 1992年6月23日、世界初挑戦。 |
| ムアンチャイ・キティカセム(タイ)を8回KOに降し、WBC世界フライ級王座を獲得。 |
| なお、この試合は世間一般の知名度に欠けるユーリの試合に注目を集めるためミッキー・ロークの前座として行われた。 |
| ムアンチャイとは翌1993年3月20日の2度目の防衛戦でも敵地タイで対戦。 |
| この時も9回TKO勝ちを収め、返り討ちに成功した。 |
| ムアンチャイとの2戦はともにJBCから当該年の年間最高試合に選ばれた。 |
| その後、本人の強い希望によりリングネームから「海老原」を削除。 |
| 1993年7月16日の3度目の防衛戦では「ユーリ・アルバチャコフ」、続く12月13日の4度目の防衛戦直前に「ユーリ」を漢字に改め、「勇利アルバチャコフ」と名乗るようになる元々、勇利自身は「海老原」というリングネームを嫌っていた。 |
| これは「エビ」という言葉がロシア語で「性行為をする」を意味しているためとのことで、決して海老原自身を嫌っていたわけではない。 |
| 1996年8月26日、9度目の防衛戦で5年前に対戦することが出来なかった渡久地と対戦(渡久地は本名の「渡久地隆人」としてリングに上がった)。 |
| 9回TKO勝ちを収めるも、右手中指を骨折。 |
| 試合内容からは想定できないほどの長期間の休養を余儀なくされる。 |
| なお、この試合も同年の年間最高試合に選ばれた(勇利にとっては3度目の同賞受賞)。 |
| 1997年11月12日、1年以上のブランクを経ての10度目の防衛戦。 |
| 勇利の休養中に暫定王者となったチャッチャイ・ダッチボーイジム(タイ)との統一戦を行う。 |
| なお、両者は1995年9月25日にも対戦しており、この時は勇利が12回判定勝ちを収め、7度目の防衛に成功した。 |
| 2年ぶりの再戦となったこの試合は反対にチャッチャイの12回判定勝ち。 |
| 2年前の雪辱を許す形となった。 |
| 世界王座陥落後、勇利は「アマチュア時代から20年近くも戦ってきた。 |
| もうたくさんだ」とコメント。 |
| チャッチャイ戦後、一時は復帰も噂されたが、右ストレートを強打するがゆえに右拳を慢性的に故障していることもあり、結局この試合を最後に現役を引退。 |
| 1999年2月、後楽園ホールで引退式を行った。 |
| その後、「いわき協栄ボクシングクラブ」のトレーナーを経験。 |
| 現在はロシアに帰国し、サンクトペテルブルクでカフェバーとボクシングジムを経営する一方、協栄ロシア代表として日本に格闘技選手を派遣するプロモーターとしての仕事も行っており、度々来日している模様。 |