| 1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(旧両津市、現佐渡市)の酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次(のち輝次郎)として生まれる。 |
| 父慶太郎は初代両津町長を務めた人物。 |
| 2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。 |
| ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいる。 |
| 1897年(明治30年)前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に1回生として入学。 |
| 1898年(明治31年)とび級試験を受け、3年生に進級する。 |
| 1899年(明治32年)眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在。 |
| 1900年(明治33年)5年生への進級に失敗する。 |
| また、目の病気のこともあり、退学。 |
| 1901年(明治34年)新潟の眼科院に7ヶ月間入院する。 |
| 上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動にも関心を持ち、社会主義思想に接近する。 |
| 1903年(明治36年)父が死去。 |
| 10月「輝次郎」と改名した。 |
| 『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、『国民対皇室の歴史的観察』はたった2日で連載中止となった。 |
| 弟北昤吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の聴講生となる。 |
| 有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。 |
| 1906年(明治39年)処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。 |
| 内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。 |
| 即ち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。 |
| その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。 |
| 同書は、天皇機関説の考え方を基礎として天皇の神聖視を支配の根拠とする藩閥官僚政治への厳しい批判を行なっていたため、刊行後ただちに発禁処分を受けることになった。 |
| その失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。 |
| 1911年(明治44年)間淵ヤス(すず子)と知り合う。 |
| 同年10月、宋教仁からの電報により黒龍会『時事月函』特派員記者として上海に行き宋教仁のもとに身を寄せる。 |
| 1913年(大正2年、中華民国2年)3月22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国した。 |
| この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。 |
| 1916年(大正5年)淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。 |
| この頃から一輝と名乗る。 |
| 1919年(大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。 |
| 1920年(大正9年、中華民国9年)年8月に上海を訪問した大川周明や満川亀太郎らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。 |
| 1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。 |
| 1923年(大正12年)猶存社が解散。 |
| 「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。 |
| これは、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えたと言われている。 |
| この頃東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。 |
| 1926年(大正15年)安田共済生命事件。 |
| 北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇したこともあった松本清張『北一輝論』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2010年、219頁。 |
| 同年、北は十五銀行が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた松本清張『北一輝論』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2010年、221頁。 |
| 同年、宮内省怪文書事件で逮捕。 |
| 1927年(昭和2年)保釈。 |
| 1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。 |
| 1937年(昭和12年)軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ、死刑判決、8月19日愛弟子の西田税とともに処刑された。 |
| 宮本盛太郎らの研究によれば、北は計画自体を知っていたものの、時期尚早であると慎重な態度を取っており、指揮等の直接関与は行っていなかったとされる。 |
| 真崎甚三郎大将ら皇道派の黒幕が予備役退役の処分で済んだのと較べると極めて重い処分である。 |
| 事件の際に「マル(金)は大丈夫か」と青年将校の拠点に電話した音声がレコードとして残っている中田整一の調査によって、この通話は何者かが北を騙ってかけたものであることが検証されている。 |
| 詳細は中田整一『盗聴二・二六事件』を参照。 |