| 横綱昇進時に付けられた四股名の「双羽黒」は、「双葉山」と「羽黒山」という、立浪部屋が生み出した2人の大横綱の四股名からで、当時の春日野理事長(横綱・栃錦)が名付け親である。 |
| しかしこの名前は明らかに不自然で評判が悪く、ある時は「『羽黒』は稽古が嫌いだった元大関の『若羽黒』から、『双』はその若羽黒の倍以上に稽古をしないという意味だ」と、当時やくみつるの四コママンガで揶揄されたこともあった。 |
| また後日相撲雑誌で「第二候補の四股名(緑島)が別に存在し、そちらにしておけばもっと長く活躍できたかもしれない」とも言われている。 |
| 後に北尾は「『素質の北尾・努力の保志』とレッテルを貼られて、稽古嫌いと言われたことは非常に心外だった。 |
| 自分は一生懸命強くなろうと努力していたのに、誰も評価してくれなかった」と述べている。 |
| なお大関時代以前は、ずっと本名の「北尾」で相撲を取っていた。 |
| 本人は四股名を付けられるのを嫌がっていたと言われるが、横綱に昇進するに当たり本名のままでは問題があると説得されたらしい。 |
| なお横綱昇進後も本名のままだった力士は、大相撲の歴史上輪島ただ一人だけだが(帰化によって本名の変わった外国出身力士を除く)、双羽黒も改名届提出が横綱推挙式の後になったため、推挙状は「北尾」名義での発行となった。 |
| 恵まれた体格と素質は誰しもが認めるもので、実際大関までの昇進は比較的スムーズだった。 |
| しかし父親が建設会社の取締役で、一人息子として甘やかされて育ったためか、稽古が少しでも厳しいと「故郷へ帰らせてもらいます」が口癖で、また師匠も本人ではなく兄弟子に厳しい稽古を注意した。 |
| ひどい時は稽古をサボって喫茶店に行ったりもしたが、師匠が注意をしないため、誰も見て見ぬふりをしていた。 |
| さらに弟弟子に対するイジメまがいの行動(付き人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、付き人が集団脱走・廃業した等と報道されたこともある。 |
| 大関(北尾)時代の1986年5月場所、小錦との取組で鯖折りで小錦の右膝を負傷させたが、小錦にとってはこの故障は引退までたたった。 |
| 一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しとなったあげくに膝を負傷させられたという経緯がある。 |
| 1986年7月場所後、横綱審議委員会が開催され北尾の横綱昇進が討議された。 |
| 北尾は直近の5月場所は12勝3敗で準優勝、7月場所は14勝1敗で優勝同点(優勝決定戦で千代の富士に敗北)だった。 |
| 横審では「優勝経験のない力士が横綱になるのはおかしい」「精神面に甘さがある」との意見が出た。 |
| 稲葉修委員が最後まで反対したものの、結局横綱に推薦された。 |
| 横綱推挙伝達式での口上は、「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」であった。 |
| なお横綱土俵入りの型は、短命のジンクスが有る「不知火型」を選択した立浪部屋の先輩である横綱・羽黒山も不知火型だったため。 |
| 指導は元横綱・琴櫻の佐渡ヶ嶽親方。 |
| ただ、優勝経験が一度もない北尾(双羽黒)が横綱に昇進できた背景には、当時横綱が千代の富士1人で東西に横綱が欲しいという相撲協会の事情と、同時期に保志(後の北勝海)の大関昇進が確定的で北尾を大関に据え置きにすると一横綱六大関になり非常にバランスの悪い番付構成になるという事情があったからと言える。 |
| いわゆる「ところてん式」(関脇→大関・大関→横綱の地位に押し出される意味の例え)による横綱昇進でもあった。 |
| 横綱昇進後は、合計3場所(1986年11月・1987年1月・1987年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、3回いずれも最後は千代の富士に敗れて優勝は出来なかった。 |
| また当時の横綱陣の中で双羽黒が最高成績だったことが一度も無かったために、番付は必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んじることになり、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは遂に無かった。 |
| 双羽黒が活躍した時代は千代の富士の全盛時代であったが、それでも対千代の富士戦は6勝8敗(横綱昇進後は2勝3敗)と健闘している。 |
| 千代の富士自身も後年、朝日新聞のインタビューで「もし双羽黒が廃業していなかったら、自分は横綱の地位にこれだけ長く留まれていたのか、又その後の53連勝や通算1000勝も達成出来たかどうかはわからない」と、その素質と強さを認めるコメントを出している。 |
| 1987年12月27日、師匠である立浪親方とのいさかいから部屋を出奔、そのまま破門同然の廃業という事態になった。 |
| 部屋の若い衆が「あんなちゃんこが食えるかと横綱(双羽黒)が言っている」と師匠にいいつけたことが発端とも言われている。 |
| 立浪親方談では、双羽黒は立浪親方とちゃんこの味付けをめぐって大喧嘩、仲裁に入った後援会会長を殴るばかりか同部屋の女将にも怪我を負わせるという騒動を起こし、部屋を出ていってしまった。 |
| ただし、両者の言い分が全く食い違っていることと公的な告訴もなかったため、実際に殴ったり怪我を負わせたかどうかという信憑性については疑問の余地が全く無いわけではない。 |
| 双羽黒がマンションの一室に篭城中に立浪親方が廃業届を協会に提出、この事態を受け大晦日ぎりぎりの12月31日に日本相撲協会緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業を決議した(破門・除名すべしとの意見もあったが、まだ24歳という青年の将来に配慮し、恩情的に廃業という形がとられた)。 |
| 同日、双羽黒は記者会見を開き「相撲道の違いで師匠について行けない、自分を貫いた」と正式に廃業を発表した。 |
| 既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が残っていたが、横綱在位数はわずか8場所(番付上では9場所)と、横綱在位場所数では琴櫻・三重ノ海と並ぶ最短記録2位タイの短命に終わった。 |
| 怪我や力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩したあげくの廃業ということもあって、世間の見方は厳しく同情論はほとんど聞かれなかったものの、著名人の中にも作家の野坂昭如などわずかではあったが双羽黒支持を表明した者たちもいた。 |
| 翌年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、3月場所の直前ということもあって相撲協会関係者は一人も出席しなかった。 |
| 止めばさみを入れたのは父親だった。 |
| なお、双羽黒の廃業直後から、テレビや新聞を中心とするマスコミの報道では、殆ど北尾を一方的に悪者扱いする報道が一般的であった。 |
| 後年、2010年1月場所後に第68代横綱・朝青龍が度重なる素行問題やトラブルの末に現役引退に追い込まれた際にも、過去例として双羽黒のケースを引用していたが、当時マスコミが報道した立浪親方の主張に基づいた内容と、後年に明らかになってきた事実との相違について、検証などはほぼ全く行われていない。 |