| 1453年(世祖3年)、17歳のときに武科に状元及第(首席合格)した。 |
| 横行する盗賊の討伐で名を上げ、1467年、李施愛の乱が勃発すると、亀城君李浚とともにこれを鎮圧。 |
| 勲功一等として賞せられ、宜山君に封じられた。 |
| つづく建州衛(女真族)の李満住との戦いでも先陣を務めて功績を上げ、工曹判書になる。 |
| 1468年には五衛都摠府都摠管を兼ね、26歳の若さで兵曹判書に昇った。 |
| しかしこの年、世祖が崩御して睿宗が即位すると、一転して冷遇された。 |
| 南怡がかつて遠征中に詠んだ詩に「男児たるものが二十歳になっても国を平定することができないならば、後世誰が立派な人物だと認めるだろうか(男兒二十未平國後世誰稱大丈夫)」という一節があったが、これを国(朝鮮王朝)を打倒する謀叛の企ての証拠であるとして同僚の柳子光が告発。 |
| 南怡は逮捕され、漢江沿いの処刑場・沙南基で処刑された。 |
| 康純ら世祖に重用された人々も陰謀に加担したとして南怡とともに粛清され、亀城君李浚も領議政を辞めさせられている(南怡の謀叛事件)。 |
| 事件は太宗の外孫である南怡ら新興の王族と、申叔舟・韓明澮ら旧勢力との対立が背景にあると推測されている。 |