| ※日付は1872年まで旧暦。 |
| 慶応3年(1867年)4月15日-和歌山城下橋丁(現、和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる。 |
| 南方家は、海南市にある藤白神社を信心していた。 |
| 藤白神社には熊野神が籠もるといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」熊野の「熊」そして、この大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。 |
| 南方家の子どもたちは、すべて藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かった為「熊」と「楠」の二文字を授かった。 |
| 生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字をむさぼり読んで成長した。 |
| 1873年(明治6年)-雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)に入学。 |
| 1876年(明治9年)-雄小学校卒業、鐘秀学校速成中学校(旧制の高等小学校と同じ)で希望者のみ入学した。 |
| に入学。 |
| 岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶して筆写を始める。 |
| この他12歳迄に『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等をも筆写。 |
| 1879年(明治12年)-和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)に入学。 |
| 教師鳥山啓から博物学をすすめられ、薫陶を受ける鳥山啓は,のち華族女学校教師となる。 |
| 行進曲『軍艦』の作詞者として知られる。 |
| 1880年(明治13年)-英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる。 |
| 1881年(明治14年)-『和漢三才図会』をうつし終える。 |
| 1883年(明治16年)-和歌山中学校を卒業し上京。 |
| 神田の共立学校(現、開成高校)入学。 |
| 当時の共立学校は大学予備門入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。 |
| この頃に世界的な植物学者バ-クレイが菌類6,000点を集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。 |
| 1884年(明治17年)-大学予備門(現・東京大学)に入学。 |
| 同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいた。 |
| 熊楠は、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。 |
| 父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業。 |
| 1885年(明治18年)-日光へ植物採集旅行。 |
| 1886年(明治19年)-中間試験で落第したため予備門を中退、和歌山へ帰郷。 |
| 12月22日-神戸港より渡米。 |
| 1887年(明治20年)。 |
| 1月7日-サンフランシスコ着。 |
| パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。 |
| 8月-ミシガン州農業大学(ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学)入学。 |
| 1888年(明治21年)-寄宿舎での飲酒を禁ずる校則を違反して自主退学。 |
| ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。 |
| この間、シカゴの地衣類学者カルキンスに師事して標本作製を学ぶ。 |
| 1891年(明治24年)-フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。 |
| 中国人、江聖聡の食品店で住み込みで働く。 |
| 新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡がはいる。 |
| 9月-キューバに渡り採集旅行。 |
| 石灰岩生地衣を発見(「グァレクタ・クバーナ」と命名)。 |
| サーカス団員として中南米旅行。 |
| 1892年(明治25年)。 |
| 1月-フロリダにもどり江聖聡と再び同居。 |
| 9月-イギリスに渡る。 |
| 9月28日-イギリスで、8月8日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける。 |
| 1893年(明治26年)-科学雑誌『ネイチャー』に初めて論文「極東の星座」を寄稿。 |
| フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。 |
| 考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。 |
| 1895年(明治28年)-ディキンズと知り合う。 |
| 大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る。 |
| 1896年(明治29年)2月27日-母すみ、亡くなる。 |
| 1897年(明治30年)-ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。 |
| 1898年(明治31年)-大英博物館で暴力事件をおこす。 |
| 1900年(明治33年)-大英博物館から出入り禁止の処分を受ける。 |
| 14年ぶりに日本に帰国。 |
| 大阪の理智院(泉南郡岬町)次いで和歌山市の円珠院に居住する。 |
| 1901年(明治34年)-孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交をあたためる。 |
| 1902年(明治35年)-熊野にて植物採集、採集中に小畔四郎と知り合う。 |
| 田辺を永住の地と定める。 |
| 1903年(明治36年)-論文『燕石考』完成。 |
| 1904年(明治37年)-田辺に家を借りる。 |
| 1905年(明治38年)-ディキンズとの共訳『方丈記』完成。 |
| 1906年(明治39年)-田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。 |
| 1907年(明治40年)-前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動をおこす。 |
| 7月-長男熊弥誕生。 |
| 1909年(明治42年)9月-新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。 |
| 1910年(明治43年)-紀伊教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日「家宅侵入」で逮捕。 |
| 監獄で新種の粘菌を発見したという。 |
| 1911年(明治44年)-柳田國男との文通がはじまる(1913年までつづく)。 |
| 10月13日-長女文枝誕生。 |
| 1912年(明治45年/大正元年)-田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。 |
| 1913年(大正2年)-柳田國男、田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。 |
| 1915年(大正4年)-アメリカ農務省スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査。 |
| 1916年(大正5年)-田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。 |
| 1917年(大正6年)-自宅の柿の木で粘菌新属を発見。 |
| 1920年(大正9年)-小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する。 |
| 1921年(大正10年)-粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(''Minakatellalongifila''、長い糸の南方の粘菌の意・現在の標準和名はミナカタホコリ)と命名される。 |
| 1929年(昭和4年)-紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講。 |
| 1935年(昭和10年)12月24日-神島が国の天然記念物に指定される。 |
| 田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られる。 |