| 終戦後、茨城県土浦市に移り、1951年、茨城県土浦第一高等女学校(現:つくば国際大学高等学校)を卒業後、単身上京し、文化学院の文学科に入学。 |
| 伯父の家に下宿して知人の紹介で水谷八重子に弟子入りする。 |
| 文化学院卒業後、大映にニューフェイスとして入社。 |
| 同期に若尾文子がいた。 |
| 翌1952年の『美女と盗賊』で映画デビュー「南田洋子さん死去:女優:長門さんと『おしどり』76歳」『毎日新聞』2009年10月22日、14版、29面。 |
| 1953年、若尾文子と共演した『十代の性典』が大ヒットし、注目される。 |
| その後シリーズ化され、「性典スター」として人気を博する。 |
| 1955年、大映から日活に移籍。 |
| 若尾の進言により、芥川賞を受賞した話題作『太陽の季節』が映画化され長門裕之とともに主演。 |
| この映画は大ヒットし2人は日活の看板スターとなり、多くの作品に出演する。 |
| 1961年に長門と結婚。 |
| 1963年、『サムライの子』でブルーリボン助演女優賞を受賞。 |
| 1964年、長門とともに「人間プロダクション」を設立。 |
| 太田博之、島かおりなどを育てると同時にドラマ制作にも乗り出す。 |
| この時期よりテレビドラマへの出演も多くなり、NHKの『紀ノ川』(1965年)で「日本放送作家協会賞女性演技賞」を受賞。 |
| また、女優としての活動以外にも長門と2人で『ミュージックフェア』の司会を1965年から約16年間、京都放送の交通遺児募金キャンペーン『かたつむり大作戦』のメインパーソナリティーを20年以上、それぞれ担当。 |
| その他、多くのバラエティ番組やCM、ドラマなどへ出演しており、おしどり夫婦のイメージのもとに最晩年まで多彩な活動をしていた。 |
| さらに1978年10月から1979年9月までの約1年間、病気で降板したうつみ宮土理の後を継いで『クイズダービー』の4代目2枠レギュラー解答者としても出演する。 |
| しかし洋子の正答率は2割1分7厘(平均2勝7敗ペース)とあまり高くなく、過去の2枠レギュラーの中ではワースト2位だった(ワースト1位は井森美幸の2割0分8厘)。 |
| 司会の大橋巨泉が「ひとりをのぞいてみんな同じ答え」と言うと南田1人だけが不正解となるパターンが多かったので、巨泉が「1人を除いて…」と言うたびに南田は「またアタシ?」とよく問い質していた。 |
| -->当時の2枠レギュラーはベテラン女優が入っていたが、彼女のみ1枠の篠沢秀夫より1つ年上と当時のレギュラーメンバーの中では最年長であった篠沢は同年6月生まれと1学年下。 |
| 大抵は篠沢が最年長。 |
| 南田のレギュラー降板後は、同じくベテラン女優の長山藍子が務めることとなる。 |
| 建築家の一面も持ち、十数年ごとの自宅建て替えの際は南田が自ら図面を引いていた。 |
| 建て替えのたびに、建設費用の高額さと建て替えまでの期間の短さがワイドショーで取り上げられている。 |
| 長門は「まだ住めるのに」とインタビューで不満を漏らすことがあったが、「洋子の趣味だから仕方ない」と許容する度量を見せている。 |
| 1998年には、舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し評判となる。 |
| 2004年頃から認知症の症状が表れ始め、ドラマや映画のセリフが覚えられなくなるほど悪化。 |
| 2006年に芸能活動をひっそりと引退。 |
| 専門医によりアルツハイマー病との診断が下された。 |
| その後、長門が雑誌などで南田が引退したことをそれとなく語っていたが、やがて女性週刊誌などが南田の病状について報道し出す。 |
| 2008年、長門が『徹子の部屋』へゲスト出演した際に、夫婦共々深い親交がある黒柳徹子へ南田が認知症で要介護状態であること打ち明け、南田の病状を初めて公表。 |
| 同年には『報道発ドキュメンタリ宣言』の第1回放送(2008年11月3日)で長門との闘病の模様が放送され、高視聴率を記録するなど、大きな反響を呼んだ。 |
| 2009年4月1日、意識混濁状態となり救急車で都内の病院に緊急入院(同月18日に退院)。 |
| 長門は記者会見で「混濁した中でも、僕を一瞬認めて笑った気がします」と涙を浮かべながらも気丈に、南田の状況についてコメントした。 |
| 翌5月には長門著『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)が出版された。 |
| 同年10月9日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で長門夫妻を取り上げた際には、取材VTRの中で、車椅子姿の南田が顔なじみのスタッフにねぎらいの言葉を掛ける一幕もあった。 |
| 2009年10月17日に自宅で倒れ、クモ膜下出血との診断を受けて都内の病院に再入院。 |
| 危篤状況が続いていたが、意識が戻らず、同10月21日に逝去した |
| 夫の長門は明治座で舞台公演の仕事があった為に、南田の最期を看取ることは出来ず、10月21日の夜に「さよならも言わずに……この世を去りました……」と悲しみの記者会見を執り行った |
| なお南田の葬儀は、長門の公演が終了した10月29日に通夜、翌10月30日に告別式が港区の増上寺で営まれ、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。 |
| 法名は「華徳院釈尼洋愛」。 |
| 萩本欽一、大林宣彦監督、萬田久子が弔辞を読んだ。 |
| なお長門は、妻である南田の死から約1年半が経った2011年5月21日、脳出血でこの世を去った。 |