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つながりの強いひと
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南部信直
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。陸奥の戦国大名。南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。 |
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九戸政実
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尼子晴久
戦国時代の武将。出雲の戦国大名・守護大名。出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆守護職。尼子経久の嫡孫に当たる。 |
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戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。南部氏家臣。通称は剣吉彦太郎とも名乗った(左衛門佐・尾張守は僭称)。 |
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戸沢盛安
、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。出羽角館の・戦国大名。家系は桓武平氏平衡盛を祖とする戸沢氏18代当主。 |
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安東愛季(あんどうちかすえ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。出羽国の戦国大名。安東近季とも。檜山系安東氏の第八代当主。 |
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相馬盛胤
戦国時代から江戸時代の武将。国人領主。戦国大名。陸奥国行方郡小高城主。陸奥相馬氏第15代当主。 |
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南部政康
南部政康(なんぶまさやす、1461年(寛正2年)-没年未詳)は陸奥の戦国大名南部氏の第22代当主。第20代当主・南部信時の次男で、第21代当主・南部信義の兄(... |
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プロフィール
- 南部晴政とは
- 家督相続
- 勢力拡大
- 信直との確執
- 最期
- 人物
- 研究
- 晴政の没年
- 石川高信の没年と大浦為信の挙兵の年代
- 関連項目
南部晴政(なんぶはるまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。陸奥の戦国大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む南部氏第24代当主。
家督相続
| 永正14年(1517年)、第23代当主・南部安信の嫡男として生まれる。 |
| 天文8年(1539年)に上洛して、将軍足利義晴より1字を拝領して晴政と名乗る。 |
| 天文9年(1540年)、戸沢政安・斯波経詮の岩手郡侵攻に対して石川高信を向かわせ、戸沢政安を秋田に追放し、斯波経詮を撃退し、岩手郡を手中に収める。 |
| 天文10年(1541年)、南部氏の家督を継いで第24代当主となった。 |
| まずは謀反を起こした工藤氏を討ち、家臣により焼失された三戸城を再建して南部氏を統一する。 |
| 南部安信から晴政への家督相続に関しては疑問の点が多い。 |
| 近年の説では、この頃の南部氏は根城(八戸)系と三戸系に分裂しており、本来は根城系が南部氏宗家であったが、三戸系の晴政がこれを討ち取ったという見方がある。 |
| またそもそも晴政と父・安信以前の系図に疑問点が多過ぎ、本当に三戸南部氏なのかどうかも疑わしい。 |
| しかし「戦国大名としての南部氏」の祖は晴政である、という点は疑う余地がない。 |
勢力拡大
| 永禄9年(1566年)、安東愛季は比内の浅利残党・阿仁地方の嘉成一族を中心とした5000の兵を遣わして南部領である鹿角郡を襲った。 |
| この際は長牛城主一戸友義の奮戦と早い降雪により安東軍は退却する。 |
| 翌年、愛季率いる6000の兵が長牛城を再度襲った。 |
| 晴政は北氏、南氏、東氏らの軍勢を救援に送り、またも安東軍は退却する。 |
| しかし愛季は諦めず、同年再度長牛城を攻撃し、落城させた。 |
| 永禄11年(1568年)、晴政は田子信直(後の南部信直)と共に大湯に着陣し、九戸政実が三ヶ田城に入り南北から挟撃する形をとった。 |
| 鹿角郡の安東軍は降伏し、奪回に成功したのである。 |
| また、こうした戦いの中で、八戸氏や九戸氏など一族の有力者を家臣団に編入することにも成功し、南部氏の最盛期を築いた。 |
| 南部氏の領土版図は、北は現在の青森県下北半島から、南は岩手県北上川中央部までに広がり、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた。 |
信直との確執
| 晴政には男子が無かったため、娘を田子信直の正室とし、信直を養嗣子として迎えた。 |
| しかし元亀元年(1570年)、晴政に実子・晴継が誕生する。 |
| 晴継誕生により晴政は信直を疎んじるようになる。 |
| 信直は養嗣子の座を辞退するが、晴政は信直殺害を画策していたといわれる。 |
| 信直は田子城へ帰れず、一族の北信愛が剣吉城に信直を匿う。 |
| 元亀2年(1571年)、同じ南部氏族の大浦為信が、突如石川高信を討ち取ったのを皮切りに、回りの南部系の豪族を次々に滅ぼし、最終的には津軽、外ヶ浜、糠部の一部を占領している(為信は、同族の領土を全て自分の物にしようと目論んでいたという)。 |
| しかし、晴政は信直との争いにより自ら手を出すことができず、差し向けた討伐軍も打ち破られてしまったという。 |
| 『八戸家伝記』では、信直が元亀3年(1572年)に川守田村の毘沙門堂へ参拝した際に、晴政が手兵を率いて毘沙門堂を襲ったとある。 |
| 信直は鉄砲で晴政を落馬させ、またそれを介抱していた九戸家当主・九戸政実の弟にして晴政の次女婿・九戸実親にも撃ち当てたという。 |
最期
| 天正10年(1582年)、病死した。 |
| 死後、家督は嫡男の南部晴継が継いだ。 |
人物
| 若い頃から勇猛で知られており、家督を継いでから「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた南部氏の最盛期を築いたのは晴政の功績によるところが大きい。 |
| 外交面においては天正6年(1578年)、織田信長に鷹を献上して誼を通じるなど優れた一面を見せた。 |
| しかし、これは晴政ではなく、信直が行ったという説もある。 |
研究
| 盛岡南部氏と大浦南部氏の家伝には食い違いが多く、この時代の北奥羽の研究は進んでいない。 |
晴政の没年
| 明治36年(1903年)に旧南部藩士の手によって作られた『南部史要』は天正10年(1582年)死亡説を唱えている。 |
| それに対して元亀3年(1572年)死亡説を採っているのは文久元年(1861年)に編纂された『三戸南部系図』であり、これは南部藩士・星川正甫が藩主に謹呈された緒家系譜を頼りに南部氏一門の系図を作成したものである。 |
| 前述のように晴政と信直の不和は明確である。 |
| また、信直とその支持者によって三戸城を攻められて、晴継ともども殺害されたとの説がある。 |
| 信直派が謀反を隠すために晴政没年を10年ずらしたと考えられる。 |
石川高信の没年と大浦為信の挙兵の年代
| 民間記録である『永禄日記』が為信挙兵を元亀2年(1571年)と伝えている。 |
| しかし、盛岡南部側は石川高信が津軽に入ったのを翌元亀3年として、死亡を天正9年(1581年)に病死としている。 |
| さらに、高信の跡を継いで郡代となった信直弟・政信を為信が浪岡城で毒殺して津軽を押領したのを天正18年(1590年)としている。 |
| しかし、これに関しては三戸南部側の作意を示す証拠が存在する。 |
| 民間記録『永禄日記』を初め、『南部晴政書状』や『南慶儀書状』も元亀2年の為信の石川城攻略を物語っている。 |
| さらに、盛岡南部側の主張が事実なら天正18年に挙兵した為信は小田原の秀吉の元へ参陣していないことになるからである。 |
| さらに現在では南部家は豪族の連合体の粋を脱しておらず、「郡代」を置けるほど三戸南部氏の勢力や統制は強固なものではなかったと考えられている。 |
| (そもそも主従関係ではなかった)。 |
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第23代当主・南部安信の嫡男として生まれる |
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1539年
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上洛して、将軍足利義晴より1字を拝領して晴... |
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