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伊東マンショ
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の正使。イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益。伊東祐青の子... |
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中浦ジュリアン
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧使節の副使。ジュリアンは洗礼名。肥前国大村領中浦村領主の子。イエズス会員でカトリック司祭。 |
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千々石ミゲル
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧使節の正使。ミゲルは洗礼名。肥前国領主千々石直員(ちぢわのうかず)の子。有馬晴信の従兄弟で、大... |
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有馬晴信
有馬晴信(ありまはるのぶ、永禄10年(1567年)-慶長17年5月6日(1612年6月5日))は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の大名。肥前有馬氏当主。有馬義貞の次... |
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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
キリシタン時代の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。 |
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ルイス・フロイス
ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。イエズス会員として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本... |
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パウロ三木
パウロ三木(ぱうろみき、永禄7年?(1564年?)-慶長元年12月19日(1597年2月5日))は安土桃山時代のキリシタンでイエズス会員。カトリック教会の聖人で、... |
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ディオゴ結城
江戸時代初期の弾圧期に活動し、殉教したカトリック司祭、イエズス会員。号は了雪。阿波国古津の平島公方足利義種室の祐賀の兄とされる。 |
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フランシスコ・ザビエル
スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1... |
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アドルフォ・ニコラス
アドルフォ・ニコラス(スペイン語:AdolfoNicolásPachón,1936年4月29日–)はカトリック教会のスペイン人司祭、神学者。第30代イエズス会総長(2008年1月19日-... |
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大村純忠
戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。日本初のキリシタン大名であり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信... |
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結城了悟
スペイン・セビリャ出身のイエズス会司祭・キリシタン史研究者。帰化名はペトロ岐部と187殉教者の一人結城了雪にちなむ。旧名ディエゴ・パチェコ・ロペス・デ... |
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アダム・シャール
ドイツのイエズス会士。日本の歴史教科書では「アダム・シャール」と表記されるが、ドイツ語での表記は「シャル」が近い。中国名は「湯若望」。 |
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ルイス・デ・アルメイダ
ルイス・デ・アルメイダ(LuísdeAlmeida、1525年?-1583年10月)は戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日... |
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ジュゼッペ・キアラ
イタリア出身のイエズス会宣教師。禁教令下の日本に潜入したが捕らえられ、拷問の責め苦に耐えかねての強制改宗により信仰を捨て、岡本三右衛門(おかもとさ... |
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マテオ・リッチ
マテオ・リッチ(MatteoRicci,1552年10月6日-1610年5月11日)はイタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭。中国名は利瑪竇(りまとう、LìMǎdòu)。フラ... |
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ペドロ・アルペ
ペドロ・アルペ(Fr.PedroArrupe,S.J.,全名ペドロ・デ・アルペ・イ・ゴンドラ、PedrodeArrupeyGondra,1907年11月14日-1991年2月5日)はスペインビスカヤ県ビ... |
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ヨゼフ・ピタウ
イタリア、サルデーニャ州ヴィッラチードロの生まれ。1945年イエズス会入会。カトリック教会の大司教。イタリア語名はジュゼッペ・ピッタウ(GiuseppePittau... |
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ロレンソ了斎
戦国時代後期の日本人イエズス会員。琵琶法師であったがフランシスコ・ザビエルに出会って洗礼を受けた。名説教家として知られ、精力的な布教活動を行い、当... |
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エルンスト・アウグスト
エルンスト・アウグスト殿下(1954年生まれ。51歳。)はハノーファー王家の当主で、王位継承者としては即ち'Ernst August V, Titular King of Hanover'であり... |
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プロフィール
原マルティノ(はらマルティノ、Martinão,永禄12年(1569年)頃-寛永6年9月7日(1629年10月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。肥前国(現在の長崎県波佐見町)出身。イエズス会員でカトリック司祭。マルチノ、又はマルチィノとも言う。使節の少年4人の中では最年少であったが、語学に長けており、ローマからの帰途、ゴアで ラテン語の演説を行って有名になる。
経歴
| ローマに残された資料から彼は肥前国波佐見の生まれであったと考えられ、大村領の名士、原中務の子。 |
| 両親共にキリスト教徒であった彼は司祭を志して、有馬のセミナリヨに入った。 |
| 巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)は、キリシタン大名であった大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直すため、また次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。 |
| そこでヴァリニャーノに白羽の矢をたてられたのが、セミナリヨで学んでいた4人の少年たちであった。 |
| その選考基準は容姿端麗で、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることであった。 |
| また正使の2人はあくまでキリシタン大名の名代ということで、彼らとの血縁にあたるものが選ばれているが、副使に関してはそこまで厳密に血縁は問われなかったようである(ただ原氏と大村氏は数代遡った血縁関係にはある)。 |
| (彼らのヨーロッパ旅行に関しては天正遣欧少年使節の項を参考)。 |
| 1590年、日本に戻ってきた彼らは翌年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。 |
| 秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、彼らはみなそれを断った。 |
| その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。 |
| 1593年7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会。 |
| 1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。 |
| 1608年、伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。 |
| 原マルチノ神父は当時の司祭の必須教養であったラテン語にすぐれ、語学の才能があった。 |
| 彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタチオ・クリスティ』(ImitatioChristi,『キリストにならう』)の日本語訳「こんてんつすむんぢ」などを出版している。 |
| 渉外術にすぐれ、小西行長や加藤清正とも折衝にあたり、当時の日本人司祭の中ではもっとも知られた存在であった。 |
| 1614年キリシタン追放令を受けて11月7日マカオにむかって出発。 |
| マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行っていたが、1629年10月23日にこの世を去った。 |
| マンショ小西、ペトロ岐部らがローマを目指した際にはこれに援助を与えた。 |
| 彼の遺骸は(正面のファサードのみ残る)マカオの大聖堂の地下に生涯の師ヴァリニャーノと共に葬られた。 |
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1590年
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日本に戻ってきた彼らは翌年、聚楽第で豊臣秀... |
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1601年
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神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオ... |
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原マルティノさんについてのひとこと紹介
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