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つながりの強いひと
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安田善次郎
富山県富山市出身の実業家。幼名は岩次郎。安田財閥の祖。 |
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古河市兵衛
古河市兵衛(ふるかわいちべえ、天保3年3月16日(1832年4月16日)-明治36年(1903年)4月5日)は日本の実業家で、古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳... |
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大倉喜八郎
日本の実業家。中堅財閥である大倉財閥(おおくらざいばつ)の設立者。明治・大正期の実業界の雄である。男爵。号は鶴彦であり、「大倉鶴彦」名義で狂歌集を... |
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渋沢栄一
幕末から大正初期に活躍した日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主... |
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池田草庵
友達
江戸時代末期の儒学者。通称は禎蔵。幼名、歌也。但馬聖人と称えられた。 |
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藤岡市助
日本の工学者、実業家。日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。電球製造の白熱舎(後の東芝)... |
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村井吉兵衛
明治時代に「煙草王」と呼ばれた実業家。後に事業を多角化し村井財閥を形成する。 |
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末延道成
末延道成(すえのぶみちなり、安政2年(1855年)-昭和7年(1932年))は日本の実業家、政治家。三菱汽船支配人や取締役、1891年(明治24年)明治生命保険・明... |
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原六朗
原六郎。東京都中央区出身。代表作に美空ひばりの「お祭りマンボ」がある。洒落たモダンな作曲を手がける事で有名であった。 |
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若尾璋八 わかお しょうはち 1873.7(明治6)〜 1943.1.10(昭和18) 明治・大正・昭和期の実業家、政治家 埋葬場所: 11区 1種 10側 山梨県出身。若尾... |
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大正十四年六月二十日、加藤弘之を父方の祖父として、 浜尾新 を母方の祖父 として誕生した。 ... 加藤弘之、 浜尾新 、両元総長は、同郷(兵庫県)の人で昔... |
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東北経済連合会設立、初代会長に平井寛一郎氏就任 「全国総合開発計画に対する意見」発表 「東北開発の基本構想−20年後の豊かな東北」発表 第二代会長に若... |
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丹下キヨ子(たんげきよこ、1920年(大正9年)1月2日-1998年(平成10年)5月4日)は昭和に活躍した歌手、女優。本名:小山キヨ |
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猪間道明
猪間道明 プロフィール
1988年東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。
故・八村義夫、北村昭、佐藤眞の各氏に作曲を師事、
ピアノを神野明氏に師事。
現在... |
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久保田譲
久保田 譲 久保田 譲 (くぼた・ゆずる、 豊岡市 出身) 1847年(弘化4年)〜1936年( 昭和 11年) 広島大学初代校長。文部大臣。 カテゴリ :政治家・経済家 |
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小山五郎 元三井銀行(現三井住友銀行)会長 更新日: 2006-03-02 小山五郎(こやま・ごろう) 元三井銀行(現三井住友銀行)会長が、2006年03月02日、... |
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平野國臣
最近はなかなかお会いする機会がないのですが、わざわざ私のために持ってきてくださいました。本当に嬉しい限りです。 先輩は坂本龍馬・中岡慎太郎の墓所にお... |
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プロフィール
- 原六郎とは
- 生い立ち
- 幕末期・維新期
- 千葉重太郎・坂本龍馬との交流
- 米国留学・英国留学
- 明治・大正期
- 晩年・故郷への想い
- 同志社・新島襄との関わりと支援
- 係累・親族
- 関連施設
原六郎(はらろくろう、天保13年11月9日(1842年12月10日)-昭和8年(1933年)11月14日)は幕末、明治・大正・昭和期の志士、軍人、銀行家、実業家。もとの名は進藤俊三郎長政といい、生野義挙で敗れ潜伏中に、 原六郎と改名。但馬国佐中村(現・兵庫県朝来市)出身。
生い立ち
| 鎌倉時代より続く但馬国佐中村の大地主進藤家第22代目当主、丈右衛門長廣の六男四女の末っ子として生まれる。 |
| 本名を俊三郎長政という。 |
| 11歳のころ、池田草庵の私塾青谿書院に入門し、北垣国道、西村哲二郎らとともに学ぶ。 |
| 池田草庵門下には、ほかに東大総長浜尾新(元東宮侍従浜尾実の祖父)、眼科医河本重次郎らがいる。 |
幕末期・維新期
| 当時、尊皇攘夷派の活動が盛んであり、尊皇攘夷論を唱えるようになる。 |
| しかし、師・池田草庵は学問に政治活動は邪道と考える人であったため、意見が相違し北垣らとともに青谿書院を脱退し、京都で平野国臣等と親交を結んだ。 |
| 1863年(文久3年)生野義挙に武器周旋方として参加。 |
| 京・四条木屋町の具足屋大高又次郎のところで武器調達をするため、京の旅籠花屋に宿泊しているときに池内蔵太(後に海援隊士)に会い、天誅組大和破陣を聞かされ、北垣らとともに一旦、生野挙兵中止論を説いた。 |
| しかし、南八郎旧名河上弥市。 |
| 奇兵隊第2代総監。 |
| 高杉晋作の親友らの強硬論がまさり、挙兵は決行された。 |
| 京で武器を調達していたが搬送の途中で生野破陣を知り、佐中経由で美作路から因州鳥取へ逃れた。 |
| 同年、情勢を探るべく、京、江戸へ入り、鳥取藩士の松田正人、河田左久馬、千葉重太郎(桶町千葉道場、北辰一刀流)らの庇護を受ける。 |
| 当時は、生野の変に参加した者への探索が厳しく、探索から逃れるため、松田正人が選んだ「原六郎」という名に改める。 |
| 桶町千葉道場に潜伏していたころに、坂本龍馬らと友人になる。 |
| のちに原本人が龍馬とは北垣晋太郎(国道)らとともに懇意にし蝦夷地開拓の話をしていたと回想している。 |
| (原六郎翁伝)。 |
| 1864年(文久4年)桶町千葉道場や長州藩邸に匿われていたが、さらに幕府の探索が厳しくなったため、長州藩を頼って、海路で長州に入る。 |
| 1865年(慶応元年)高杉晋作の紹介により、長州藩の遊撃隊に加入し、四境戦争では高杉に従って小倉口の戦いに従軍した。 |
| 戦役が一段落した1866年(慶応2年)、普門寺塾(三兵塾)を母体に山口に創設された陸軍学校明倫館に入学し、大村益次郎から洋式陸軍の手ほどきを受けた。 |
| その後は長州藩の軍に属し、討幕運動に関わる。 |
| 1868年(慶応4年)1月に始まった戊辰戦争では、鳥取藩に附属する形となった丹波国桑田郡山国村の志願農兵隊山国隊の司令士として、鳥取藩士の河田左久馬、千葉重太郎、北垣国道、山国郷沙汰人水口備前守、藤野近江守(映画監督牧野省三の父)らとともに、関東、東北各地を転戦。 |
| 特に上野戦争(彰義隊の乱)で、覆面部隊として上野山に潜入し官軍を勝利に導く功労をあげる。 |
| その後、原は官軍に帰順した旧幕兵で構成された帰正隊隊長として、東北から蝦夷地までを転戦し榎本武揚や土方歳三らが立てこもった五稜郭の戦い(箱館戦争)までを戦い抜く。 |
| 1869年(明治2年)鳥取藩士に取り立てられる。 |
| 鳥取藩兵の洋式化に従事。 |
| さらに、新政府に差し出された鳥取藩軍に入り、第1回天覧閲兵式には歩兵大隊長として参加、「兵の指揮、誠に見事也」と絶賛された。 |
千葉重太郎・坂本龍馬との交流
| 1864年(文久4年)正月に江戸に潜入した北垣、原らは4、5ヶ月のあいだ、桶町千葉道場に潜伏し、その後、赤坂檜町の長州藩邸に移った。 |
| 坂本龍馬と友人になった経緯について、後年、原は「その時分、私は千葉(桶町千葉道場)といふ撃剣家の家に潜伏したり、長州屋敷に居りました。 |
| 坂本(龍馬)には江戸で会った。 |
| あれは勝安房(勝海舟)の門人見たやうなものだった。 |
| それから何故坂本と懇意になつたかと云うと、千葉と云う撃剣の先生がをる。 |
| 因州藩(鳥取藩)のものでそこに潜伏して居つた、坂本はそこに出入りしてゐた、それが懇意になつたもとです。 |
| 」と述べている。 |
| 坂本龍馬との蝦夷地開拓の話はこのころのことと思われる。 |
| (原六郎翁伝)。 |
| 当時、千葉重太郎の道場には、北垣国道、原六郎のような勤皇志士らが集まっており、このことが幕府の知るところとなり、一時は町奉行所百人程度の人数で桶町千葉道場が探索されそうになり、道場の全員を避難させ、重太郎本人は一人で探索方の来場を待つ状態まで追い込まれるが、重太郎の人品を知る老中板倉勝静が「千葉重太郎は不良の徒に非ざるなり。 |
| もし浪士を隠匿するあらば、我親しく招致して諭さんとす、今公武の間疎隔を来さんとす、万一追捕の挙に出ては、彼、もとよ剣客塾中の徒と、腕の続かん限り相闘わば、まさに大事に至るべし」と重太郎を擁護した。 |
| (千葉の名灸)。 |
| 当時、重太郎も文字通り命がけで志士を匿っていた。 |
| 北垣、原は、その後、鳥取藩に属した形で、鳥取藩士でもあった千葉重太郎とともに戊辰戦争を戦った。 |
| 明治になり、北垣は政治家・官僚となり、原は留学から帰国後、実業家となり成功するが、彼らは陰に日向に重太郎やその家族を支援した。 |
米国留学・英国留学
| 1870年(明治3年)に太政官が30万石以上の大藩に選出させた海外官費留学生として、原は1871年(明治4年)に渡米する。 |
| しかし原は短期留学で満足できず、官費が打ちきられてもアメリカに残った。 |
| 今後の日本の発展は、軍事よりも経済だと考えたためであった。 |
| 苦労の末にコネチカット州にあるエール大学に入学して、経済学・金融学を学ぶこと2年。 |
| 次いで1873年(明治6年)には、イギリスに渡り、キングスカレッジで経済学・社会学・銀行学を修め、1877年(明治10年)に帰国した。 |
明治・大正期
| 1878年(明治11年)鳥取藩池田侯爵家を中心にして、第百国立銀行を設立し頭取となる。 |
| 1880年(明治13年)東京貯蓄銀行を設立、頭取となる。 |
| 1883年(明治16年)、大蔵卿松方正義の要請を受け、破綻の危機に陥っていた第4代横浜正金銀行頭取に就任する。 |
| 松方大蔵卿は横浜正金銀行の改革のため、第百国立銀行頭取である原を頭取に据えた。 |
| 原は、松方の意を受けて、正金銀行内の改革を実施した。 |
| まず不良債権や損失を調査確定し、銀貨と紙幣とを交換した差益で補填をはかり、1885年(明治18年)には欠損を解消した。 |
| 外国為替の取組も急増し業務拡大には資金不足であったため、1887年(明治20年)3月に資本金を600万円に倍額増資した。 |
| 一方、正金銀行を外国貿易業務に特化するため、松方らと協議し、同年7月勅令第29号横浜正金銀行条例の制定を実現した。 |
| また、1882年(明治15年)に創業した日本銀行との関係を、正金銀行が外国業務を担当することで整理し、以後日本銀行と横浜正金銀行とが両輪となって日本の財政と金融を牽引していく基礎を確立した。 |
| この7年に及ぶ経営再建により、原は横浜正金銀行中興の祖と呼ばれた。 |
| この他日本興業銀行、台湾銀行、勧業銀行の創立委員を務め、金融業以外にも富士製紙・横浜船渠各会社長、東武鉄道、山陽鉄道、播但鉄道、総武鉄道、九州鉄道、北越、北海道鉄道、京仁鉄道、台湾鉄道、東洋汽船、東京電燈、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水力発電、台湾製糖などの設立、事業に多大の貢献をした。 |
| ゆえには渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに明治の財界五人男と並び称されるほどの経済界の大物であった。 |
| 1920年(大正9年)4月、東武鉄道取締役退任。 |
晩年・故郷への想い
| 全盛期には、播但鉄道の開通に尽力し、また義父土倉庄三郎に但馬の山林整備と事業化を要請した。 |
| 地元の村立山口小学校(旧朝来町)に講堂兼体育館を進藤家当主である兄・丈右衛門長厚とともに寄付し、少年期に学んだ師池田草庵の私塾青谿書院の財団法人化のための資金を北垣国道とともに寄付。 |
| 幕末の生野義挙で敗れて21歳で自刃した同志・南八郎(河上弥市・第2代奇兵隊総監)たち17名を祀る招魂社(山口護国神社)建立にあたり、多額の寄付を寄せ、建立式に出席をした。 |
| 南八郎(河上弥市)は、生野破陣後、原六郎が幕府の探索方から逃れて潜伏する際、長州で世話になった高杉晋作の幼少の頃からの親友であり、戊辰戦争で活躍した山田顕義(のち陸軍中将、伯爵、司法卿、日本大学学祖、国学院大学学祖)の再従兄弟であった。 |
| 高杉晋作は、生野義挙で自刃した南八郎(河上弥市)の死を伝え聞き、次の漢詩を詠んでいる。 |
| 『予知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。 |
| 二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲(さいうん)に類す、然して二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。 |
| 六郎の旧邸跡は現在、の御殿山(東京都品川区)ガーデンと原美術館となっている。 |
| 300px|原美術館。 |
同志社・新島襄との関わりと支援
| のちに、校舎用、同志社大学設立用と多額の寄付を繰り返し、新島を支援する原を新島は「貴殿は吾人之恩人」と感謝している。 |
| 正金銀行頭取在任中の1888年(明治21年)、奈良吉野の山林地主で「大和の山林王」・「自由民権のパトロン」と呼ばれ、同志社の新島襄の後援者であった土倉庄三郎の長女富子と、京都・祇園の中村楼で、新島襄の司式、京都府知事北垣国道の媒酌により結婚。 |
| 妻富子が同志社女学校の出身であり、富子の兄弟姉妹たちも同志社で学んでいた。 |
| 新島襄が同志社に大学を設立運動のため上京した際、井上馨が呼びかけ人となり、1888年(明治21年)7月19日、大隈重信外務大臣官邸において、新島を支援するための会合が開催され、原も渋沢栄一と同じく最高額を寄付する。 |
| 東京日日新聞第五〇一四号1888年(明治21年)7月21日記事によれば内訳は、○金千円大隈伯○金千円井上伯○金五百円青木周蔵○金六千円渋沢栄一○金六千円原六郎○金五千円岩崎弥之助○金三千円岩崎久弥○金二千五百円平沼八太郎○金二千円益田孝○金二千円大倉喜八郎○金二千円田中平八○計金三万千円也とある。 |
係累・親族
| 妻:原富子(1869年-1957年):土倉庄三郎の長女。 |
| 1911年同志社女子大学(同志社女学校大学部)設立準備委員。 |
| 養子:原邦造(1883年-1958年)…旧姓田中。 |
| 第百銀行頭取、愛国生命社長、日本航空社長・会長、東京ガス会長、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)総裁、日銀政策委員など歴任。 |
| 曾孫:原俊夫…原美術館館長。 |
| 朝来郡山口村村長(市町村合併後、旧朝来町→朝来市)。 |
| 三井船舶社長・大阪商船三井船舶社長・会長、日本船主協会会長。 |
| 六郎の要請を受け、六郎の故郷である但馬の山々に植林を行い、林業を盛んにした。 |
| 外交官、外務大臣、伯爵、内閣総理大臣臨時代理(1921年原敬首相暗殺時、1923年加藤友三郎首相死去・関東大震災時)、南満州鉄道総裁。 |
関連施設
| 原美術館(東京都品川区)…原六郎・邦造の美術コレクションを展示。 |
| 佐中千年家(兵庫県朝来市)…進藤家邸。 |
| 山口護国神社(兵庫県朝来市)…六郎が建立に際し多額の寄付をし、完成式に出席。 |
| 生野の変で敗れ、自刃した長州の南八郎(旧名河上弥市、村田清風や山田顕義の一門)ら、幕末志士を祀るとともに、明治維新から昭和にいたるまでの地元戦没者を祀る。 |
| 南八郎らが自刃した朝来町山口の妙見山(別名:岩州山)の山麓に建つ。 |
| 朝来市立山口小学校(兵庫県朝来市)…原六郎が兄の進藤丈右衛門長厚とともに講堂兼体育館建設資金を寄贈。 |
| 平成になって、NHKのクローズアップ現代等のメディア・番組で、陰山英男教諭と百ます計算などの教育手法による成果で脚光をあびる。 |
| 神奈川県立歴史博物館(神奈川県横浜市)…原六郎が中興の祖と呼ばれ頭取をつとめた旧横浜正金銀行本店。 |
| 山国護国神社(京都府京都市)…山国隊の隊士が祀ってあり、河田左久馬、原六郎の墓石もある。 |
| 山国隊は京都時代祭の先頭を鼓笛隊として行進する維新勤王隊列のもともとの名前。 |
| 青谿書院(兵庫県養父市)…少年期から学んだ池田草庵の私塾。 |
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1842年
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原六郎(はらろくろう、天保13年11月9日昭和8... |
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