| シベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣が内閣総辞職に追い込まれると、ついに政党嫌いの山縣も原を後継首班として認めざるをえなくなった。 |
| こうして、1918年(大正7年)に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされる。 |
| それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。 |
| 原内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化をその特徴とする。 |
| まず、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものである。 |
| そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策)を組閣後早々に打ち切った。 |
| さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4ヶ国による新4国借款団(日本の支那への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を、対英米協調の観点から決定した。 |
| 第一次世界大戦の後始末をするパリ講和会議が開かれたのも、原内閣の時代だった。 |
| この会議では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの提唱によって国際連盟の設置が決められ、日本は常任理事国となった。 |
| しかし、シベリア出兵についてはなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の1922年(大正11年)、加藤友三郎内閣時代のこととなった。 |
| 内政については、かねてから政友会の掲げていた積極政策、すなわち、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。 |
| とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心であった。 |
| 1918年(大正7年)、原内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4,450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。 |
| その計画では官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。 |
| この高等教育拡張政策は第一次世界大戦の好景気を背景とした高等教育への、求人需要、志願需要の激増に応えたものである。 |
| さらに、軍事費にも多額の予算を配分し、1921年予算は1917年度予算の2倍を超える15億8000万円にまで膨れ上がった。 |
| 多額の公債発行を前提とする予算案には野党憲政会、貴族院から多くの反対意見が上がった。 |
| また原は、地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養する一方で、同党の支持層に見合った規模での選挙権拡張を行っている。 |
| 1919年(大正8年)には衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制を導入すると同時に、それまで直接国税10円以上が選挙人の資格要件だったのを3円以上に引き下げた。 |
| 翌年の第42帝国議会で、憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めた。 |
| 普通選挙法の施行は、憲政会を率いた加藤高明内閣を待つこととなる。 |
| 原は政友会の政治的支配力を強化するため、官僚派の拠点であった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派である「研究会」を与党化させた。 |
| このほか、高級官僚の自由任用制の拡大や、官僚派の拠点であった郡制の廃止、植民地官制の改正による武官総督制の廃止などを実施し、反政党勢力の基盤を次第に切り崩していった。 |
| 帝国議会の施政方針演説などにおける首相の一人称として、それまでの「本官」や「本大臣」に変わり「私」を使用したのは原敬が最初である。 |
| 1921年(大正10年)11月4日、関西での政友会大会に出席のため東京駅に着いた直後、国鉄大塚駅転轍手であった中岡艮一により刺殺されほぼ即死(原敬暗殺事件参照)。 |