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つながりの強いひと
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後藤信康
戦国時代から江戸時代の武将。陸奥・出羽の戦国大名である伊達氏の家臣。 |
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伊達成実
戦国時代後期から江戸時代前期の武将。仙台藩初代藩主・伊達政宗の重臣で、仙台藩一門第二席・亘理伊達氏の初代当主。父は伊達実元、母は実元の兄・伊達晴宗... |
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片倉景綱
片倉景綱(かたくらかげつな)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である。伊達氏家臣で、伊達政宗の近習となり、のち軍師役を長年務めた。仙台藩片倉... |
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伊達輝宗
戦国時代の武将・戦国大名。伊達氏第16代当主。 |
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白石宗実
安土桃山時代の武将。陸奥の伊達氏の家臣。白石宗綱の孫。白石宗利の子。白石宗直の養父。 |
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留守政景
戦国時代から江戸時代の武将。陸奥の伊達氏の一門で、留守氏第18代当主。別名・伊達政景。号は雪斎。通称は六郎、従五位下上野介。伊達晴宗の子(三男)。母... |
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支倉常長
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達氏の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。幼名は與市、初名... |
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鬼庭綱元
安土桃山時代から江戸時代の武将。陸奥・出羽の戦国大名である伊達氏の家臣。 |
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屋代景頼
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。出羽・陸奥の戦国大名である伊達氏の家臣。屋代閑盛の孫。屋代修理の子。鹿股源六郎の弟。屋代三郎兵衛の父。屋代... |
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原田宗資
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。仙台藩重臣。 |
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猪苗代盛国
戦国時代の武将。陸奥国の戦国大名蘆名氏の家臣。猪苗代家当主。はじめ平太郎・弾正忠と称し、初名は盛親。子に猪苗代盛胤、宗国、盛明。父は蘆名盛詮の次男... |
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左馬之助
「地方史家 野津左馬之助」 野津左馬之助は明治44年から
昭和5年までの間、
島根県史編さん委員として
「島根県史」全9巻を編さんしました。
また山代二子塚... |
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最上義光
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。出羽国の戦国大名・最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて... |
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鈴木元信
伊達氏の家臣。通称は七右衛門。別名に秀信とも。官位は従五位下。和泉守。出自や伊達氏に仕えるまでの経緯については、天正期には雑賀衆に参加していた説、... |
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大内定綱
戦国時代の武将。陸奥国安達郡小浜城主。後に伊達氏家臣。 |
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愛姫
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。田村清顕と正室於北(相馬顕胤の娘)の一人娘で、伊達政宗の正室。通称は田村御前。院号は陽徳院。 |
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桑折宗長
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊達氏の重臣。伊達輝宗、政宗父子に仕えた。 |
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鬼庭良直
戦国時代から安土桃山時代の武将。伊達氏家臣。左月斎の号で知られる。 |
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遠藤宗
名前 遠藤 宗幹 役職 医長 出身大学 東京大学大学院医学系研究科博士課程修了 職歴 東京大学医学部心臓外科に所属、小児・成人心臓外科疾患医療(東大... |
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プロフィール
原田宗時(はらだむねとき、1565年(永禄8年)-1593年7月(文禄2年))は、安土桃山時代の武将。陸奥・出羽の戦国大名伊達氏の家臣。父は山嶺安長源市郎。幼名虎駒。通称 左馬之助。原田氏の祖は伊達氏初代朝宗に仕え、伊達氏累世の宿老家である。
事蹟
| 永禄8年(1565年)、山嶺安長源市郎の子として生まれる。 |
| 天正10年1582年4月、相馬表の戦いにて叔父の原田宗政が戦死する。 |
| 原田宗政には嗣子がなかったなめ、伊達輝宗の命により、虎駒が原田家の嗣子となることを命ぜられ、御字を賜り、宗時と称し、左馬之助と名付けられる。 |
| 原田宗時は原田家第17代当主となった。 |
| その後、伊達輝宗に仕え、天正11年1583年、わずか18歳にして原田城(現:山形県川西町上小松)城主を継いだ。 |
| その性剛直にして勇武の士。 |
| 才気に富み、軍務を掌握、各所の戦いにおいて顕著な戦功をあげ、輝宗、政宗の厚い信頼を受けた。 |
| 天正17年1589年の摺上原の戦いにも参陣して武功を挙げている。 |
| 天正19年1591年伊達家が奥州再仕置きによって米沢を召し上げられ、岩出山に移封となると、宗時も原田城から離れ政宗に従った。 |
| 文禄元年1592年、秀吉より朝鮮出兵を命ぜられ、政宗に従って渡海する。 |
| だが翌年の文禄2年(1593年)釜山にて病を患ってしまう。 |
| 御暇を賜い帰船したが病が益々重くなり釜山浦近くの島に滞留して対馬国まで戻ったが、そこでついに病没した。 |
| あるいは釜山浦で没したというこれより先、同じく伊達家臣の桑折政長も病にて釜山浦で没している。 |
| このとき政宗はとても落胆し、母に手紙を送付している。 |
| また、同じ頃病を患い帰船した原田宗時のことも心配しその身をあんじていた。 |
| 政長は桑折宗長の嗣子で桑折家当主。 |
| 桑折政長の妻は、伊達政宗の側室の飯坂の局の姉である。 |
| 政宗は原田宗時のあまりにも早すぎる訃報を知り、御嘆きのあまり、彌陀の名号を御句の上に置いた『国風六首』を詠じた。 |
| 夏衣キツツナレニシ身ナレトモ別ルル秋ノホトソモノウキ。 |
| 虫ノ音ハ涙モヨホスユフマクレサヒシキ床ノヲキフシモウシ。 |
| アハレケニ思フニツレス世ノナラヒナレニシ友ノ別モソスル。 |
| 見ルカラニ猶アハレソウ筆ノ跡今ヨリ後ノ形見ナラマシ。 |
| 誰トテモ終ニハユカン道ナレトサキタツ人ノ身ソ哀ナル。 |
| 吹ハラフ嵐ニモロキ萩カハナタレシモ今ヤオシマサラメヤ。 |
| 死後、宗時には嗣子がいなかったので、政宗の命により、桑折宗長の末子、弁慶弁慶は伊達治家記録によると、桑折宗長(点了斎)72歳の子としているが、桑折家系図では宗長の父桑折貞長の五男と記録されている。 |
| つまり、桑折宗長の兄弟であり、原田宗時の叔父にあたるが養子に命ぜられ、原田宗資江戸時代の寛文年間、宗資の子の原田宗輔は仙台藩の家老を務めたが、伊達騒動にて死去し、責任を取って原田家は断絶させられた。 |
| 後に再評価がなされるまで、長きに渡って藩政を牛耳った悪家老としての汚名を残した。 |
| 原田氏が宗時の代まで居城した原田城址には原田氏の愛木である樅の古木が立ち並んでいる。 |
逸話
| 朝鮮出兵に参陣した伊達軍は、とても派手な格好をしていて評判になり、京の町では派手好きな人を「伊達者」というようになった。 |
| 中でも宗時は、同僚の後藤信康と二人で駿馬にまたがり、長さ1間半(約2.7メートル)もの大太刀に、金の鎖をつけて肩から提げ、大太刀が地面につきそうなくらい長刀であったといい、「さすがは伊達者」と人々を驚かせ、人々はみな彼の威を讃えたという。 |
| その後藤信康とは対立関係にあり、ある時に日頃の信康の態度に憤激した宗時は信康に決闘を申し入れたが、信康に諭され和解し、信康の義勇の大きさに敬服して、以後二人は親善を深くしたという。 |
出典
| 歴史群像編集部編『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年)ISBN4054042902。 |
| 「原田宗時」の項目。 |
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1565年
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山嶺安長源市郎の子として生まれる |
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1582年
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相馬表の戦いにて叔父の原田宗政が戦死する |
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原田宗時さんについてのひとこと紹介
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