| 「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評され、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした週刊朝日1978年5月12日号p44、週刊朝日1978年6月23日号p144『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房p60 |
| 原田自身も「最初から洋楽のロックの世界を目指した」と話している。 |
| また男性のピアノの弾き語りというスタンスが珍しかったこと |
| すさまじい人気は本家・男性アイドル新御三家を完璧に食い、洋楽アイドル、ベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した『日本ロック大系〈下巻〉』月刊オンステージ編集部白夜書房p415-416。 |
| アサヒ芸能2010年10月21日号徳間書店52-55ページ。 |
| 当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮がある時代であったが新譜ジャーナル1978年4月号自由国民社p22-27『ザ・ベストテン』(TBS、1978年1月放送開始)が始まったこの時期、大里と拓郎は原田を積極的にランキング番組やアイドル系歌番組にも出演させた石原信一著「吉田拓郎挽歌を撃て」(八曜社)147ページ。 |
| 『ザ・ベストテン』には第3回(1978年2月2日)放送で、ニューミュージック系歌手として初出演第1回・第2回にランク入りした中島みゆきは出演しなかった。 |
| 、以降も毎回のように出演し |
| また「月刊明星」などのメジャーなアイドル雑誌、芸能誌にもすすんで登場。 |
| 当時アイドルの最大のステータスともいえた「月刊明星」(1978年3月号)の表紙をロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど山口百恵や榊原郁恵ら女性アイドルと二人で計4度表紙を飾る。 |
| 極めて歌謡曲的な売り方、話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した田家秀樹監修『日本のベスト・アルバム―フォーク&ロックの25年』シンコー・ミュージックp92富沢一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』音楽之友社p172-180『日本ロック大系〈下巻〉』月刊オンステージ編集部白夜書房p414-417富沢一誠『フォーク名曲事典300曲』ヤマハミュージックメディア2007年p430-431。 |
| 原田らが成功したことで、シングルチャートやテレビ、ラジオの歌謡曲番組へのニュー・ミュージック系ミュージシャンが、地すべり的に大量進出する傾向が決定的なものとなり、日本の音楽シーンの流れが大きく変わった |
| 結果的にロックはアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し、巨大ビジネスとなっていったのである『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房p200『J-ROCKベスト1231968-1996』講談社p158-159山下達郎は、テレビからロックスターやメガヒットが出るようになった1978年前後の音楽状況を自身のラジオ番組でこのような解説をしている( |
| 解説は歴史順に並んでおらず自身やYMO、竹内まりやまで入れて少し分かりにくいがヒット順、メジャーになった順番でいえばチャー→原田真二→世良公則&ツイスト→サザンオールスターズ→ゴダイゴ、ここで触れられていないが甲斐バンドの順となる過去のオリコンチャート等参照。 |
| ※デビュー順ではない。 |
| ただチャーのヒットシングルは自作曲でなく、かつ大ヒットはしていない。 |
| 矢沢永吉はテレビを拒否してこの時期にシングル・アルバム、あるいは自伝本の大ヒットを出した点で順番のどこに入れるべきかが難しい。 |
| またYMOはこのジャンルの流れで語られることはなく、山下達郎と竹内まりやがヒットを出したのは1980年代に入ってから。 |
| 原田の登場は、後に続いた多くのポップシンガーに大きな影響を与えており、その功績は図り知れない『ニューミュージックの時代〜日本のフォーク&ロックヒストリー2』p125。 |
| 『ザ・ベストテン』で黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称を付けられる等アイドル性が強調され、自身、陽気でフランクな性格である反面、マスコミや業界の間では"生意気"で通っていた越美晴が、やっぱり生意気で"女・原田真二"と言われていた(近田春夫『定本気分は歌謡曲』文藝春秋1998年p81)。 |
| 「レコード大賞」等、日本音楽界の権威の象徴であった音楽賞への参加を早々に辞退したり、当時ではまだ"アーティスト志向"という括り、言葉もなかった芸能界において、「僕の歌は歌謡曲じゃない」「アイドルじゃなくてアーティストです」と主張したりした |
| また、幼少の頃から読書家で、宇宙に想いをはせたり週刊セブンティーン特別編集:原田真二(1978年)、精神世界関連等、広く探求していた影響もありACOUSTICNIGHT1Talk「カインドネスウエーブ」、コスモポリタン、救世主、潜在意識、ヒーリング、プラス思考、黙示録(曲タイトル1stAlbumのラストに収められた曲)、タントラ(歌詞「RainbowColor(2ndAlbum)」インド楽器、SITAR・TABLAがフィーチャーされ"自然に前向きに人生を生きよう!"と歌うメッセージソングの一節に"タントラに君も届くはずさ"という歌詞がある。 |
| といった、当時としては聞き慣れない難解な用語を混ぜて音楽を語ったり、哲学的側面も持ち合わせていた。 |
| この他、当時の音楽番組は基本的に生放送で、出演歌手は番組専属のオーケストラのバック演奏で歌っていたが、生番組で自らのバンドを率いて演奏する原田らと番組スタッフが、演出法に対してもめる事が多かった。 |
| 例えば、NHKホールなどの公開番組で、演奏に必要なモニタースピーカーが十分に用意されていなかったり、短時間の間にバンドを入れ替えセッティングするのは難しかった。 |
| そこにさして、ちょっとでも意見をいうと「生意気なやつだ」となり一悶着、そういう時代であったというBS朝日「MUSICSOUL」。 |
| メインのスタジオと別にセットを組む、別スタジオからの中継は原田らの登場から始まったものアサヒ芸能2010年10月21日号徳間書店p52-55。 |
| これらの改善も含めて彼らの頻繁なテレビ出演は、後のテレビ界・音楽界に多大な影響を及ぼしたといえる『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房p200『J-ROCKベスト1231968-1996』講談社p158-160。 |